紅い満月−1


 大陸の殆どが広大な森に覆われる中、その場所は“プラチナ”という名で呼ばれている。
 所以は冬が来れば雪に覆われて白銀一色に染まる為だが、現在の季節は春。
 新緑に色づいた木々は通り過ぎる春風に優しく撫でられ、さわさわと囁くように微かな音を立てていた。
 しかし、プラチナの森の北端。
 断崖となっている崖を境にシルバラードと森の名を変えるその崖の上からは、自然の木々では成し得ない音が響き渡っている。
 金属同士が擦れ合う音。
 重厚で、鋭く、しかし鈴の音のように澄み渡った、剣戟の音。
 時折発せられる短い掛け声。
 ぶつかっては離れる、ふたつの影。
 そう、その場所では、誰かが剣を交えていた。


「どうした、息が上がってるよ!」
「……っ、まだ、まだっ!」
 優勢であるのは、叱咤するように声を上げた、それなりに年を重ねているであろう白髪の女性。
 女性の剣戟を往なすのが精一杯であるのが、成人に僅か達していない長い黒髪の少年。
 劣勢であるとは言えども、少年の動作は常人の目で追いきれるものではない。
 少年が大地を蹴り、低姿勢で加速しながら剣を薙ぐその速度は、まさに疾風。
 しかし女性は少年に向かって突進しながらもそれを難なくかわし、すれ違い様に身体を回転させながら少年を斬り付けるという余裕まで見せる。
 少年はそれを紙一重でかわすものの、背中から脇腹にかけて、纏った衣服が綺麗に裂けていた。
 苦い、余裕の無い表情を、少年は見せる。
 それもその筈。
 剣を交える女性……彼の剣術の師であるフレイアは、桁が違うと言える程にその身に秘めた戦闘能力が違うのだ。
 何せもう二十分以上は全力で戦っているというのに、彼女は傷のひとつはおろか汗ひとつ掻いていない。
 逆に少年はというと、全身から汗が吹き出しているうえ身体中あちらこちらに傷を負い、汗に混じって鮮血が幾筋も流れている という始末だ。

 少年は両足で地面を削りながら加速した勢いを殺し、身を翻してフレイアに向き直る。
 が、直後、バランスを失って地に片膝をついてしまった。
「何だい、もうお終いかい?」
「まさか……そんな訳、ないだろ」
 フレイアの言葉に精一杯虚勢を張るかのように、少年はふらふらと立ち上がりながらそんな言葉を口にする。
 とは言えども、この目の前の戦神に純粋な斬り合いで挑んだところで、これまでのように押し負けてしまう。
 小技が通用する筈もない。
 ならば。
 一か八か、己の持つ最大の技を、仕掛けてみるしかないのではないか。

 少年、サフィンは、手にした剣を両手でしっかりと握り、正面に構える。
 途端、フレイアの表情が厳しいものに変わった。
 己の教えたことだ、構えを見れば瞬時に判る。
 サフィンがどのような技を繰り出そうとしているのか。
 そして、弟子の技とは言えども……いや、弟子の繰り出す技だからこそ、己も全力で当たらねば危険であるということも、だ。

 フレイアがサフィンと同じ構えを取ると、周囲の木々がざわめく。
 木々を揺らすそれは、対峙した2人の身体から発生した気と魔力の流れだった。
 視認出来るほど強力に練り上げられたそれは、彼らの持つ剣に集束されていく。
 気と魔力が集束した刀身が薄青い輝きを発すると。
 サフィンとフレイアは、同時に、己の手にした剣を渾身の力で振り下ろした。
 大気が唸る。
 その唸りはまるで龍の咆哮のようだった。
 いや、まるで、ではなく。
 2人の振り下ろした剣からは、本当に双頭の龍が現れたのだ。
 実際は、それは2人が繰り出した技であり、強力に練り上げられた気と魔力が視覚化された結果として見せる幻でしかない。
 だがそれが本物の龍と同等の……いや、本物の龍が繰り出す攻撃を上回る破壊力を持つ以上、幻であると言い切ることは出来ないだろう。
 もの凄まじい勢いで現れたそれは2人の中心でぶつかり合い、互いの威力を相殺する。
 ……結果、フレイアの繰り出した龍がサフィンのそれに勝った。
「……っわ!」
 相殺しきれずに残った衝撃が、サフィンを吹き飛ばす。
 サフィンは20メートル以上も吹き飛ばされ、直線上にあった太い木の幹に背中を打ち付けてようやく止まった。
 よほどの衝撃だったのだろう。
 うなだれたサフィンの頭上から、冬にプラチナの森を埋め尽くす雪の如く新緑の木の葉が降ってくる。
 木の葉の舞いが終わるのを待ってから、フレイアは腰に携えた鞘に剣を収め、ゆっくりとサフィンに近付いていった。

「大丈夫かい?」
「……あぁ、大丈夫……って訳でも無さそうかな。まだまだだな、俺も」
 気を失っているかのように見えたサフィンからは、すぐに反応が返ってくる。
 しかし立ち上がれるほどの体力は残っていないようで、木の幹に背中を預けたままでの返答だった。
 何せ常人であれば立ち上がれないばかりか一瞬にして命を奪われかねないほどの衝撃だったのだから、それも仕方のない話であろう。
 それを耐え抜き、更に意識を保っているサフィンこそが、常軌を逸していると言える。
 苦笑を浮かべる己の弟子の成長ぶりに、フレイアは満足そうな笑みを浮かべた。
「いーや、大したもんだよ。このあたしに傷を負わせるくらいだからね」
「?」
 師の言葉の意味が判らず、サフィンは首を傾げつつ顔を上げる。
 まさか、この戦神が自分の技で傷など負う訳が……
 ……無い、筈なのだが。
 顔を上げた彼の視界に、頬に走った細い線からひとしずくの鮮血を滴らせているフレイアの姿が飛び込んできた。
 最後に放った技の、その衝撃が、僅かにフレイアまで届いていたのだ。
 俄かには信じ難いその光景に、サフィンはぽかんと口を開けてフレイアを凝視する。
 実感が湧かないにも程がある光景だった。
 鬼のように……いや、鬼などとは比較にならぬ程に強いフレイアに、自分が傷を負わせただなど……
 フレイアはサフィンの阿呆面に小さく吹き出し、サフィンが背中を預ける木の上方へと視線を向けた。
「ねぇ、あんたもそう思うだろう?」

「うん、サフィン、凄いよ! 私もうかうかしてられないなぁ」

 フレイアの問い掛けに、彼女の視線の先から言葉が返される。
 可愛らしい声でその言葉を発したのは、声に似つかわしい容姿を持つ少女であった。
 高い位置でふたつに括られた、桜色の柔らかそうな髪。
 大きな山葡萄色の瞳。
 薔薇色の唇に、小柄で、細くしなやかな肢体。
 太めの枝に腰掛けてぶらぶらと足を遊ばせている彼女は、サフィンが褒められているのを、まるで自分のことのように嬉しそうに笑っている。
 阿呆面のまま彼女を見上げたサフィンは、彼女の可愛らしい笑みが視界に入った瞬間正気を取り戻し、顔を赤くして慌てて視線を逸らした。
 くすりと、先程とは別の意味合いの笑みを、フレイアは浮かべる。
「ナナ。降りてきてサフィンの傷を治してやりな」
「はぁい」
 ナナ、と呼ばれた木の上の少女は、フレイアの言葉に応えると、腰掛けていた枝から飛び降りた。
 その場所から地面までは十メートル以上もの高さがある。
 だがサフィンもフレイアも飛び降りたナナの心配など微塵もすることなく。
 ナナもまた当然のように、殆ど音も立てずに地面へと着地した。
 何せこの華奢な少女はサフィンと同様フレイアの弟子で、先程の二人の攻防を全て目で追いきれるほどの実力の持ち主である。
 心配などする方が野暮というものだった。

「大丈夫?」
 サフィンの傍らに跪いたナナは、下から覗き込むようにして彼の顔色を伺う。
 目の前で桜色の髪が優しく揺れた瞬間サフィンの顔が一気に紅潮し、その様子を見たフレイアはあからさまに吹き出して面白そうに笑った。
「あっれぇ? サフィン君、どうしたんだい? 顔が真っ赤だけどぉ?」
 いやらしい口調でわざとらしく尋ねてくるフレイアを、サフィンは半眼でねめつける。
 しかしナナは彼の心情など知る由もなく、心配そうに眉をひそめて更に顔を近付けてきた。
「大変! 傷が熱持っちゃったのかな……」
「ぅわっ……ち、違う! 何でもないから!」
 後頭部を背後の木に強打するのもお構いなしに、サフィンは力の限り心臓に悪過ぎるこの現状を打破しようと試みる。
 だがその努力は彼女との顔の距離を僅か5センチほど開いただけで終わってしまった。
 遂に声を上げて笑い出したフレイアをサフィンは思い切り睨み付けるが、真っ赤な顔で睨み付けられても迫力などあろう筈が無く、フレイアの笑いは止まらない。
 凛とした切れ長気味の蒼い瞳を持つ端整なその顔が赤くさえなければ、多少迫力は出たのかも知れなかったが。

「さて、と」
 ひとしきり笑い終え、笑い過ぎで目尻に浮かんだ涙を拭ってから、フレイアは仕切り直した。
「あたしは一足先に里に戻ってるけど。ナナはサフィンの傷をきっちり治して、それから二人で戻ってくること。良いね?」
 言いながら、フレイアは己の右頬に付いた細い傷を右手でなぞる。
 すると、頬の傷は血の滴った跡ごと綺麗に消え去っていた。
 フレイアが行ったのは、己の気と魔力を練り上げたものを傷口へと流し込み、自己回復能力を促進させて傷を癒すという術だ。
 いくら細い傷でもなぞっただけで瞬時に治癒できるものではないが……それはそれ、戦神の為せる技の賜物である。
 つまるところナナに課せられたのは、この術を使ってサフィンの傷を全て治癒するという修行の一環だ。
「うん」
 可愛らしく返事をして、ナナは早速サフィンの腕に触れる。
 サフィンが微かに頬を紅くしたのを見逃さなかったフレイアは、にんまりと、殊更いやらしい笑みをサフィンへと向けた。
「ゆっっ……………………くりで、良いからね」
「っ!」
 瞬時にサフィンの顔が真っ赤に染まる。
 それを確認して満足そうに笑うと、フレイアは二人へ向かって手を振りながら、何処かへと歩いていった。
 二人きりで残され、サフィンは何となく気まずくなってしまう。
 だがナナは、不思議そうに首を傾げてのほほんとした声でのたまった。
「ゆっくりで良いって、どういう意味かな? あ、でも、今日はサフィンの傷が沢山あるから、ちょっと時間が掛かっちゃうよね」
 思わず、サフィンの肩の力が抜けてしまう。
 つまるところ、この少女は……鈍いのだ。
 サフィンが傍から見て非常に判り易い反応をしているのにも関わらず、サフィンの心情に気付く気配が全くないのだから。
 だからこそフレイアも、面白がってサフィンをからかうのだが。

(まあ、そこも可愛いんだけどな……)
 サフィンは心中でひとりのろけてみる。
 それに、その鈍さのお陰で里の若い野郎共から向けられる熱視線や猛烈なアピールに気付いていないというのも幸いだ。
 気付いて貰えないのは自分も同じだが、サフィンにはこうして修行のため二人きりになる機会が多いことや同じ家で暮らしているという強みがある。
 フレイアも共に暮らしているゆえ下手に手を出せないし、自分にそのような度胸も無いというのが痛いところではあるが。
 いやしかし、次にフレイアが家を空ける時には多少なりとも進展を……

 ……などと葛藤していると、ナナに触れられた左腕が体温とは違う熱を持つのを感じ、サフィンは意識と視線をそちらへ向けた。
 手のひらと腕が接触している部分からは、柔らかい光が溢れている。
 光源から緩やかに沸き起こる風に揺られる、桜色の髪。
 うっすらと開かれた山葡萄色の瞳。
 整った愛らしい顔立ち。
 淡く柔らかい光に照らされる彼女の全てが神聖なもののように思え、サフィンは吸い込まれるように彼女に見入る。
 しばしそうしていると、ゆっくりと、光が止んだ。
「はいっ、左腕の治療、終わったよ」
 普段通りの明るい口調で言われ、サフィンは我に返る。
 見れば、いつの間にやら彼の左腕にあった無数の傷が綺麗に消え失せていた。
「あ、ああ。ありがとう」
「じゃ、次は右腕ね」
 恥ずかしげに軽くこめかみの辺りを掻きながら、サフィンは言われるままに右腕を差し出す。
 再び、淡く柔らかな光が触れられた場所から溢れ始めた。

「……凄い、よな」
 光を見つめながら、サフィンはぽつりと呟く。
 傷を癒すことに集中していたナナは、手は止めずに、視線だけをサフィンへと向けた。
「ん?」
「いや、治癒術は俺には無理だからさ」
「サフィンには剣術があるんだから良いじゃない。それに、まだまだフレイアのように上手くはいかないよ」
 ナナの言葉で先程の場面を……フレイアが己の傷を手でなぞっただけで瞬時に消してしまったことを思い出し、サフィンは思わず苦笑する。
 それに加え、自分に教えている剣術も、ナナに教えている体術も……弓術や魔術ですら、フレイアは常軌を逸した力を使いこなしてみせるのだ。
 彼女に師事するようになってから十数年。

 “お前に、この子を守ってあげて欲しい”

 その言葉のみを糧にして、彼女が何故このような力を持つのかも、何故自分達にその力を与えようとするのかも判らぬままに、ひたすら強さのみを求めてきたけれど。
 ……その背には追いつけぬと、思わせられ続けている。
「……本当に、強いな……フレイアは。世界中の“強さ”を全部集めたみたいだ」
 そう言うと、サフィンは黙り込んでしまった。
 ぼんやりと遠くを見るような、微かだが悲痛ささえ含んだサフィンの表情を見て、ナナは彼には判らぬよう小さく苦笑する。
 そして、そっとサフィンの顔へと両手を伸ばし、顔を挟むように両頬に手を添えた。
 更に顔を近付けて自分の額をサフィンのそれへと軽く触れさせ、瞳を閉じる。
 サフィンは一気に現実へと引き戻され、顔を紅潮させて混乱した。

 傷の治療ならば手で触れれば良いだけの筈が何故顔までくっつけるなどといオイシイ事態に……いやいや勿論全く嫌という訳ではないが、もう少しこちらの心中を察して欲しいというか、でも顔を離そうにもナナの手が添えられているし一体どうすれば……
 サフィンの心中が恐慌状態に陥っていることなど露知らず、サフィンの顔の傷の治療を終えたナナはゆるりと顔を離し、満面の笑みを浮かべる。
 そして、サフィンの頬をぱちんと音が立つほどに挟んでいた両手で叩いた。
「痛っ……」
「全く、何言ってるの。サフィンも充分強いんだからね。私なんてもう組手で勝てやしないんだから!」
 そう言ってナナは立ち上がり、腰に手を当てて怒ったような表情を作ってみせる。
 どうやら非常に心臓には悪いものの彼女なりにサフィンを励ましてくれていたようで、サフィンの表情が自然と綻んだ。
 サフィンの表情が緩んだのを確認するとナナは満足そうに笑い、フレイアが歩いていった方へと駆けていく。
 彼女らの住む里がある方向だった。
「何してるの、置いてくよー!」
「今、行くよ」
 穏やかな気持ちでゆるりと立ち上がり、サフィンは元気良く手を振ってくるナナの後を追う。
 春風が、彼の腰まである黒髪を優しく撫でて通り過ぎた。


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