紅い満月−2


 プラチナの森の少し奥まった場所に、その里はあった。
 里の名は“ロサ・ガリカ”。
 人口もそれほど多くはなく、隠れ里と呼ばれるだけあって里への人の出入りも殆ど無い。
 それゆえ、里へ2人の子供を連れた女が突然舞い込んで来た時は、それなりの騒動だった。
 女は瀕死の重傷を負っており、里の者達は手厚く彼女を介抱する。
 傷が癒えると彼女はすぐさま子供達を連れて里を出ようとするが、傍から見れば訝しいことこの上ない彼女に、里の者達は何も聞かずに里へ住むよう進言した。
 頑なに断る彼女であったが、里の者達の熱心な説得により、彼女は里の外れへと居を構えることとなる。
 当時二十歳前後であった女の名は、フレイア。
 歩き始めたばかりの男の子の名は、サフィン。
 そして、生まれて間もない女の子の名を、ナナと言った。

 それから十数年。
 血の繋がらないという彼女達はまるで家族のように未だ里の外れで暮らし、里の者達に、温かく受け入れられている。





「よくもまあ飽きずに修行なんてするよなぁ」
 午前中の修行を終えてロサ・ガリカへと帰り着いたナナとサフィンへ向かって掛けられた第一声が、それだった。
 特に嫌味という訳ではない、単に呆れたという雰囲気を纏ったその言葉を発したのは、サフィンと年の変わらないであろう赤茶の髪色の少年である。
 ナナとサフィンは声に反応して振り返ろうとする……が、その瞬間、声の主の後頭部に何か硬質のモノが襲い掛かった。
 ガツン、と、やたら痛そうな音が響き、少年は後頭部を押さえて声もなくその場にうずくまる。
 その背後に堂々と仁王立ちしていたのは、少年とは対照的に青い髪色をした、彼と同様サフィン達と同じ年頃の少女だった。
「何をサボってるのよ! そんな嫌味吐いてる暇があるならキャベツの収穫でもしなさいっ!」
「嫌味じゃねぇっつーの……つーかルナー、てめぇ一体何で殴りやがった……」
「鎌よ! 峰打ちだっただけマシだと思うことね!」
 ふんっ、と鼻息も荒く、ルナーと呼ばれた少女は手にしていた鎌をびしぃっと少年へ突き付ける。
 だが少年はあまりの痛みによりうずくまったまま、彼女の得物を見ることはしなかった。
「……ったく、峰でも痛いもんは痛いだろ……俺は、充分化け物みたいに強いのにそれ以上強くなってどうすんだっつー意味で言ったんだよ」
「化け物とは何よ! ナナ達はロサ・ガリカの護衛役として日々修行に励んでくれているんじゃない。ねぇ、ナナ?」
「う、うん」
 ルナーの勢いに押され気味ではあるが、ナナが答える。
 サフィンは未だうずくまったままの少年、シグマの哀れさに、心中で合掌した。
 ルナーの言の通り、ナナとサフィン、そしてフレイアは、この里の“護衛役”を務めている。
 午前中は里の近くの崖上で訓練をし、午後になると里の者達の仕事を手伝いつつ周辺の見回りに出掛けるのが彼女達の日課だ。

 自然の森の中にあるゆえか、ロサ・ガリカの周囲には野獣や魔物の類が現れ、時折里の者達に牙を剥く。
 昔は里の者達が交代で護衛役をしていたが、何も聞かず里へ居を構えることを許してくれた者達へのせめてもの礼に、と、フレイアがその役割を引き受けた。
 里の者達は反対したが、フレイアは頑として譲らず。
 また、多少は訓練を積んでいる里の者達の遥か上をゆくフレイアの戦闘能力を見せ付けられ、役割を譲らざるを得なくなったのだ。
 現在は護衛役にナナとサフィンも加わり、三人の実力は、里の誰もが認めている。

「そ、そういえばもうお昼になるよね。二人とも、戻らなくて良いの?」
 ルナーとシグマの口論が更に続きそうな気配を察してか、ナナが若干不自然ながらも話の方向転換を試みる。
 そういえばそうね、と、ルナーは家々からうっすらと立ち昇る煙に目を向けた。
「じゃあ、また午後にでもね。ほら、行くわよシグマ! キャベツ持って!」
「毎回思うが何で俺がお前ん家の収穫物引いて帰らなきゃならねーんだよ」
「そういう法則が出来上がってるのよ。ほら、男が文句を言わない! どうせ同じ方向に行くんだから」
「……ったく」
 渋々とではあるが、シグマはルナーが収穫したキャベツの入った荷車の方へと向かう。
 が、途中で思い立ったように足を止め、振り返った。
「ナナ」
 シグマに名を呼ばれ、ナナは返事の代わりに微かに首を傾げることで応える。
「午後にでも、時間が空いたら……」
 続きを言おうとして、シグマは言葉を詰まらせた。
 言葉が出なかったのではなく、ナナの背後に立つサフィンと目が合ってしまったからだ。
 笑顔を浮かべてはいるものの背後に見えるどす黒いオーラのような何かは、続きを口にすれば命の保障は無いということを物語っている。
 冷や汗を幾筋か流しながら、シグマは静かに彼から視線を外した。
「……いや、やっぱり良いや。またな」
「? うん、またね」
 とぼとぼと去っていくシグマを、苦笑を浮かべながら同じ方向へと歩くルナーを、ナナは手を振りながら見送る。
 彼らの背中がだいぶ遠くなってから、ナナはぽつりと呟いた。
「何だろう。野菜の収穫でも手伝って欲しかったのかな」
「さあ、何かあればまた言ってくるだろ」
「そうだね」
 そ知らぬ顔で言うサフィンにナナは笑顔で応える。
 こうして日々、彼女は里の若い男衆の魔の手から守られていた。





 小川で世間話をしながら昼食に使う食材を洗うおばさん達と挨拶を交わし、子供達の遊び場である里の中心の広場を抜け、民家がまばらになってきた辺りにあるゆるい坂を少し歩く。
 そこには山小屋のような、質素な造りの家があった。
 ナナは古びた木製の扉を二回叩き、開く。
「ただいま」
「おかえり。早かったね」
 蝶番の軋む音と共に中へ入ると、フレイアの声が出迎えてくれた。サフィンもただいまと言いながら中へ入る。
 山小屋のような里の外れのこの場所は、彼らの住む家だった。
「あれ、モリスさん」
 入ってすぐの部屋、ダイニングのテーブルについている家の住人ではない者を認め、ナナが呟く。
 モリスと呼ばれた人の良さそうな中年男性は、雰囲気を裏切らない柔らかい笑みを浮かべた。
「お帰り。お邪魔してるよ」
「あたしが帰ってくる途中で会って、野菜を頂いてね。昼食に誘ったんだよ」
 奥のキッチンから、パエリア鍋を持ったフレイアが出てくる。
 テーブルの中心に置かれた山の幸たっぷりのそれは、部屋中に美味しそうな匂いを漂わせた。
「邪魔しちゃ悪かったかな」
 フレイアが食器を取りにキッチンへ戻ったのを確認してから、こっそりとサフィンがナナに耳打ちする。
 ナナは神妙な面持ちになり、声のトーンを落として言った。
「そうだね……いつもサフィンに任せっきりの昼食作りを今日に限ってしているところを見ると……」
「しかも、メニューがまた気合入っているよな。パエリアなんて、普段絶対に作らな……」
「そこ、聞こえてるよ!」
 キッチンから凄まじい勢いで二本のスプーンが飛んでくる。
 的確に頭を狙って飛んできたそれを見事にキャッチして、ナナとサフィンは顔を見合わせて小さく笑った。
 二人の会話が聞こえていなかったらしいモリスは、二人を睨みながらキッチンから出てくるフレイアと笑いながら席に着く二人を首を傾げながら交互に見る。
 取り皿などを用意し終えると、フレイアは空いている席……モリスの隣へ腰掛けた。
 この男性、モリスは、三人が里へ舞い込んできた時の第一発見者であり、当時瀕死の重傷を負っていたフレイアを手厚く介抱してくれた者達の中心人物でもある。
 里へ住むよう進言してくれたのも彼で、それ以来、三人に対して何かと世話を焼いてくれていた。
 フレイアは昔から定期的に数日間家を空けることがあるが、ナナとサフィンが小さい頃は泊まりで二人の面倒を見に来てくれていたし、今日のように家で収穫した野菜などを持ってきてくれたりもする。
 面立ちも良く紳士的で女性にも人気のある彼が未だ独身でいるのはフレイアの為ではないかと、奥様方に噂される程に。
 実際そうなのだろうと、ナナもサフィンも思っているが。
 正面に座るフレイアとモリスを、ナナはスプーンを口許に当てたままぼんやりと見た。
 二人は何でもない世間話をしながら食事を楽しんでいる。
(フレイアも、まんざらじゃなさそうなんだけどなぁ……)
 こんなに仲がいいのに。どうして結婚しないんだろう。
 自分の鈍さは棚に上げてナナがそんなことを考えていると、視線に気付いたフレイアがふと彼女の方を見た。
「どうした、食欲ないのかい?」
「ううん、おいしいよ。ただ、フレイアとモリスさんがそうしていると夫婦みたいだなって」
 ガッ!
「!?」
 言い終わるや否や、真正面に座っていたフレイアがナナの脛に思い切り蹴りを入れる。
 哀れにも脛への直撃を受けたナナは椅子から落ちるようにして床へ蹲り、左の脛を両手で押さえて声にならない声を上げた。
「て、照れ隠しにしては痛すぎるよ、フレイア……」
「馬鹿なことを言ってると命の保障はしないよ、ナナ」
 立ち上がれないナナを、フレイアは修羅の如き目で睨み付ける。
 今ナナを庇ったりなどしたら存在を消されるため、サフィンは助けたいがどうすることも出来なかった。
 むしろ殺気による重圧で動くことすら出来ず、冷や汗だけが静かに流れていく。
「ま、まあまあ、フレイアも落ち着いて……」
 そこで、何故このような展開になっているのかいまいち判らなかったが、流石にナナが可哀想に思えたモリスが助け舟を出した。
 はっとして小さく咳払いをしたフレイアは殺気を消し、ナナもようやくふらふらと立ち上がって席に着く。
 それでも未だテーブルに伏せて脛の痛みに耐えることしか出来ないナナに、サフィンは悲痛な表情を向けた。
 モリスはそんな三人のやり取りを見て小さくため息を吐きつつも、目を細める。
 ふと、隣から聞こえる小さな笑い声に気付いたフレイアが彼の方を見た。
「どうしたんだい?」
「いや、そうしていると本当の親子のようだと思ってね」
「嫌だ、あたしにこんなでっかい子供が二人もいるように見えるのかい?」
「もう36だろ……」
 ズガン!
 言い終わるや否や、サフィンが椅子ごと後頭部から床に落ちる。
 殺人的な勢いで向かいの席からスプーンがぶっ飛んできて彼の額にクリーンヒットしたからだ。
 しゅうしゅうと額から煙を立ち昇らせて生死の境を彷徨うサフィンを、ようやく復活したナナは青ざめた顔で見る。
 彼は隣のナナにぎりぎり聞こえる程度に呟いたつもりだったようだが、修羅の耳は全ての悪口を悉く拾う仕様だった。
 だが、フレイアの言葉は冗談で言ったものだが、周囲から見れば二人がフレイアの子供だと言われても首を傾げるのは事実である。
 彼女は年齢を思わせない程度には若く、そして美しかった。
 白髪のため遠くからだと老人に見られることもあるが、肩よりも少し長いその髪はよく見ると銀色に近く、時間と共に色を変える太陽や月や星の光を如実に反射し輝く。
 面立ちも凛然としており、左頬に走る炎のような紅い紋様が一層それを際立たせた。
 特に、彼女が剣を振るう時の精悍な様には鳥肌が立つ。
 それでいてざっくばらんな性格で面倒見も良く、里の者達からも慕われていた。
 ナナは無造作にフレイアの髪を括る結い紐をちらりと見る。それはナナの桜色の髪を括るものと揃いのもので、彼女は特に理由もなく嬉しくなって微笑んだ。
「でも、ほら……親子じゃないけど、家族だよ」
「ああ。そうだね」
 未だ復活できないサフィンに眼力で追い討ちを掛けていたフレイアは、ナナにつられるようにして微笑み答える。
 そう、大切な、家族だった。



 魔物の手によるもの。ヒトが起こすもの。
 原因は数え切れないほどあるが、世界にはそういったものの被害に遭い朽ちてゆく町や村が少なくない。
 十数年前。名も無き村が、戦火に巻き込まれ滅んだ。
 傭兵をしながら旅をしていたフレイアは、旅の途中で偶然そこへ通り掛かる。その時誰かの声が聞こえた気がして、彼女は生存者の確認のために村を周った。
 声を辿ると、そこは瓦礫と化した小さな家の残骸。瓦礫を除けると、地下へと続く扉。
 地下倉庫らしきその場所へ入ると、中では、二人の幼い子供が声を上げて泣いていた。
 冷たい床の上で火が点いたように泣きじゃくる赤子を、まだ何も判らないであろう小さな小さな子供が、自分も泣きながらそれでも庇うようにして蹲っていたという。
 二人の近くには、急いで書き殴られたメモのような紙があった。
 “この子達を、安全な場所へ。”
 たった一言。けれど、真摯な願い。
 それを聞き届けるために、フレイアは比較的戦火の届かぬ隠れ里へと二人を移すことにした。
 だがその途中で魔物に遭い、二人を庇いながらの戦闘で深手を負ったフレイアは何とか近くの里へ辿り着き……そして、今に至っている。

 ナナとサフィンは、自分達の経緯をそのように聞かされていた。
 二人もそれを信じ、渡りの傭兵であったにも関わらず二人のために里へ留まってくれたフレイアを、本当の親のように慕っている。
 里の者達から見ても本当の家族のように。



 何でもない話をしながらの、楽しい昼食の時間は過ぎる。
 そんな中、フレイアの表情だけが一瞬、翳りを見せた。
 いつもそう。彼女は、例えば大声で笑っている時でさえ、ふとした瞬間に表情に暗い色を落とす。
 まるで幸せである事に対しての戒めのような、己を責め立てるかのような……
 ……それは、普通ならば判らない程の微妙なもの。
 だが、どんなに些細なものだとしても、敬愛する親であり師である彼女の変化をナナとサフィンが見逃す筈など無かった。


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