the past 紅い満月−1

 世界四大陸のひとつ、アリストラル大陸。
 アリストラル大陸は四大陸一自然の多い土地であり、その広大な面積の約半分が、人の力の及ばない深い森に覆われている。
 その為か、国の統治を嫌う者や独自の文科を持つ者達の隠れ里が、深い森の中に多数存在する。
 ここ、『ロサ・ガリカ』も、そのような隠れ里のひとつだった。
 ロサ・ガリカは、プラチナという名の森に四方を囲まれている。
 プラチナという名の由来は冬が来ると森が白銀一色に染まるためだが、今は春。新緑に色づいた木々が春風に優しく揺られ、さわさわと微かな音を立てていた。
 しかし、森の北端、プラチナとシルバラードをの森を分ける崖の上だけは、少し様子が違っていた。
 短い掛け声と、鋭い剣撃の音。
 誰かが、戦っている。
 「ホラ、どうした!息が上がってるよ!」
 「…くそっ…まだまだっ!」
 戦っているのは、中年の女性と少年だった。
 いや、『戦い』ではなく、『修行』と言った方が正しい。
 中年の女性、フレイアは、少年、サフィンの剣術の師なのだ。
 二人の攻防は、常人の目には追えないような速さで展開されていた。
 サフィンが大地を蹴り、加速しながら剣を横に振り払うと、フレイアは突進しながらそれを難無くかわし、すれ違い様に身を反転させながらサフィンを斬り付ける。
 サフィンは何とかそれをかわしたようだが、背中から脇腹にかけて、服が裂けていた。
 サフィンの表情には余裕がなかった。
 それもそのはずだ。
 フレイアは強い。
 もう二十分以上は全力でぶつかっているというのに、傷はおろか汗ひとつかいていないのだ。
 逆にサフィンはというと、じっとりと汗ばみ、体中あちらこちらが浅く裂けて鮮血が幾筋も流れていた。
 サフィンは足でブレーキをかけると身を翻してフレイアに向き直った。
 が、直後、よろめいて地に片膝を付く。
 「何だい、もうお終いかい?」
 「まさか…」
 フレイアの言葉に、サフィンは肩を上下させながら答えた。
 とは言っても、サフィンにはもう余裕がない。そのうえ、フレイアに小技は通用しない。
 ならば。
 サフィンはふらふらと立ち上がり、剣を両手で持って正面に構えた。
 その途端、フレイアの表情が変わった。
 サフィンがどのような技を出すのか、フレイアには判ったのだ。
 そして、自分も全力でぶつからねば危険だということも。
 フレイアはサフィンと同じ構えを取る。
 直後、二人は同時に大きく剣を振り下ろした。
 すると、剣先から双頭の龍の形をした巨大な衝撃波が巻き起こり、二人の中心でぶつかり合った。
 龍の咆哮が聞こえてきそうな程の凄まじい衝撃に、辺りの木々も折れそうな程にしなり、ざわざわと悲鳴を上げる。
 …結果、フレイアの龍の方が僅かに勝り、相殺されずに残った衝撃がサフィンを吹き飛ばした。
 「…っわ!」
 サフィンは数十メートル吹き飛ばされた後、直線上にあった太い木の幹に背中を打ち付けぐったりとうなだれた。
 サフィンがぶつかった木は激しく揺れ、数十枚、新緑の葉が宙を舞う。
 新緑の葉の舞いが終わると、フレイアはゆっくりとサフィンに近付いていった。
 「大丈夫かい?」
 「ああ、大丈夫…ってて…まだまだだな、俺も」
 近付きながらフレイアが言うと、サフィンは微かに顔を上げ、苦笑した。
 「いや、あたしに傷を負わせるんだから、大したもんだよ」
 「?」
 意味が判らず、サフィンはフレイアを見上げた。
 すると、フレイアの頬から一筋、鮮血がしたたっていた。
 最後に放った技の衝撃が、わずかにフレイアまで届いていたのだ。
 サフィンがフレイアに傷を負わせたのは、これが初めてだった。
 「あんたも、強くなったもんだ」
 フレイアは剣を持っていない方の手を腰へ移動し、微笑んだ。
 しかし、サフィンは実感が湧かないのか呆気にとられているのか、口をぽかんと開けたまま固まっていた。
 いわゆる、アホ面というやつだ。
 フレイアは小さく吹き出すとサフィンがもたれかかっている木の上に視線をやった。
 視線の先にいたのは、桜色の髪を高い位置で二つにくくった少女だった。
 少女は、地上から十メートル程の位置にある太い枝に腰掛け、二人の様子を終始見ていた。
 ただし、ただ見ていた訳ではなく、ちゃんと『見えて』いたのだ。
 「ナナ。降りてきてサフィンの傷を治してやりな」
 「はぁい」
 答えると、少女…ナナは木の枝から飛び降りた。
 十メートルという高さから、ナナは殆ど音も立てずに着地すると、サフィンの傍に寄り膝をついた。
 すると、ようやくサフィンが正気を取り戻したようだった。
 「大丈夫?」
 ナナがサフィンの顔を覗き込みながら首を傾けると、桜色のやわらかい髪が優しく揺れた。
 途端に、サフィンの顔が一気に紅潮する。
 それを見て、フレイアはサフィンに気付かれないよう小さく吹き出し、いやらしい口調で尋ねた。
 「あらぁ?サフィン、どうしたんだい?顔が真っ赤だけどぉ?」
 「えっ!?大変、傷が熱持っちゃったのかな…」
 「なっ…違う!何でもない!」
 焦って否定するとサフィンはフレイアを睨み付けるが、赤い顔で睨まれても迫力はなく、フレイアはからかうような笑みをサフィンに向ける。
 しかし、その眼差しは優しかった。
 「さて、と」
 言うと、フレイアは二人に背を向けて歩き出した。
 「あれ?フレイア、どこ行くの?」
 ナナの言葉でフレイアは足を止め、顔だけ振り返る。
 「あたしは一足先に里に戻ってるよ」
 「でも、顔の傷…」
 「自分で治せるさ」
 「あ、そっか…」
 フレイアが微笑みながら言うので、ナナもつられて微笑んだ。
 が、次の瞬間、フレイアの笑みがいやらしいものに変貌した。
 視線はサフィンに向けられている。
 「ゆっっ…………………くりで、いいからね」
 「なっ…!」
 サフィンが真っ赤になったのを確認すると、フレイアは小さく笑いながら里の方へ向かっていった。
 その場には、ナナとサフィンが二人きりで残される。
 「??ゆっくりでいいって、どういう意味かな?まあでも、今日はサフィンの傷がたくさんあるから、ちょっと時間が掛かっちゃうよね」
 のほほんとした表情で、ナナは言った。
 つまり、この少女は……鈍いのだ。
 サフィンがあんなに判り易い反応をしているのにも関わらず、全くそれに気付いている様子がない。
 フレイアも、その辺を判っているから面白がって先程のようにサフィンをからかうのだ。
 まあ、そこもかわいいんだけど…
 …などと、サフィンが一人頭の中でのろけていると、ナナがサフィンの左腕の傷に触れた。
 すると、手のひらと腕が接触している部分から柔らかい光が溢れ始める。
 サフィンは光に照らされるナナに見入った。
 光と共に起こる柔らかい風に揺られる桜色の髪。
 うっすらと開いた山葡萄色の瞳。
 整った愛らしい顔立ち。
 それが、淡い光に照らされて…
 何か、神聖なものを見ているようだった。
 吸い込まれるようにサフィンが見入っていると、ゆっくりと、光が止んだ。
 「はい、左腕の治療、終わったよ」
 「あ、ああ、ありがとう」
 「じゃ、次は右腕ね」
 言われるままに、サフィンは右腕を差し出した。
 再び、柔らかい光が溢れ始める。
 「…すごいよな…」
 光源をぼおっと見つめながら、サフィンは呟いた。
 「ん?」
 「いや、傷を治したり…さ。俺には出来ないから」
 「そう?だって、修行次第でサフィンにも出来るようになるものだよ?魔法とか、そういう才能の必要なものじゃないし」
 ナナが今使用している力は、人間の体内に流れる『気』の流れを操り、自己回復能力を促進させるというものだ。
 この世界には魔法というものも存在するが、魔法は生まれつき備わっている才能に左右され、しかも才能を持って生まれる者はそう多くない。
 「それに、私なんかよりフレイアの方がすごいよ。フレイアなら、一瞬で治しちゃうもん」
 それを聞いて、サフィンは苦笑した。
 「はは、そうだな」
 「フレイアは何でも出来るし、強いもんね。剣術も、体術も、魔法も…世界中の『強さ』を全部集めたみたいに…」
 サフィンは無言で頷く。
 「…本当に、強いよな…フレイアは…」
 そう言うと、サフィンは黙り込んだ。
 傷の治療に集中していたナナは、そこで初めてサフィンの顔を見る。
 視線はどこか遠くを見ており、その表情は…僅かだが、悲痛なようにも見えた。
 ナナは、そっとサフィンの顔を挟むように両手を添え、瞳を閉じた。
 向かい合うような形になり、サフィンは顔を紅潮させる。
 ナナは両手の平に意識を集中させ始めた。
 顔の傷が、徐々に消えていく。
 傷が完全に無くなるとナナはゆっくりと瞳を開き、サフィンの顔をぱちんと両手で挟むように叩いた。
 「痛っ…」
 「何言ってるの。サフィンも充分強いんだからね」
 怒ったような表情を作って言ってみせると、ナナはすっくと立ち上がり、里の方へと駆け出した。
 サフィンは右手で頬を押さえ、駆けて行くナナを呆然と見つめた。
 が、すぐに優しい表情に変わる。
 「何やってるの!?置いてっちゃうよー!」
 「今、行くよ」
 ゆっくりと立ち上がると、サフィンはナナの方へ向かって行った。
 春風が吹き、サフィンの腰まである黒髪を優しく撫でていく。
 二人は並んで里の方へ歩いて行った。


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