the past 想い−3

 暗い、暗い、海の底のような場所にあった意識が、ようやく浮上し始める。
 浮上するにつれ周囲は徐々に明るくなっていき、水面上のような一番明るい場所へと到達すると、ナナはようやく意識を取り戻した。
 ゆっくりと目を開くと、まずは白く塗られた天井が視界に入ってくる。
 しばしの間、視界がはっきりするまで天上を眺めると、ナナは視線だけを周囲へ巡らせた。
 どうやら神殿内の一室らしいということだけを理解すると、ナナは半身を起こし、まだはっきりしない意識を呼び覚まそうと、額に手を当てて目を閉じる。
 ずいぶん長い間、眠っていたように思える。
 長い、長い夢を見ていたような気がするが、その内容までは思い出せない。
 しかし、気分は妙に清々しかった。
 ナナは目を開くと、もう一度辺りを見回す。
 すると、入り口の扉が静かに開いた。
 入ってきたのはティアだった。
 手には、白いタオルとナナの服らしきものを持っている。
 ティアは、ナナが起き上がっていることに気が付くと、ナナに微笑みを向けてきた。
 「よ、おはよう」
 「おはよう…ございます」
 ナナが微笑み返しながら言うと、ティアはナナのところへ歩み寄り、ナナにタオルと服を手渡す。
 「風呂沸かしといたから、入っておいで。髪とかベタベタして気持悪いだろ。あと、風呂から上がったら、1階のキッチンに来な。朝食用意しといてやるから」
 そうとだけ言って、ティアは部屋から出ようとするが、ナナはそれを引き止めた。
 「あ、あのっ!」
 「ん?」
 引き止められ、ティアは顔だけ振り返る。
 「ありがとう」
 その言葉に、ティアは再び微笑んだ。
 「その言葉は、アタシじゃなくてサフィンに言ってやりな。アンタが試練受けてる間、寝ないで待っててくれたんだからね」
 そう言うと、ティアは部屋を出た。
 (サフィンが…)
 ティアの先ほどの言葉を聞いて、ナナは何だか嬉しくなり、手渡されたタオルを軽く抱き締める。
 しばしの間ナナはそうしていたが、やがてベッドから降りると浴室へと向かった。



 浴室は二階の一番手前…階段の一番近くにある。
 中へ入り、脱衣所から浴室の中を覗くと、浴室は、薄い青色のタイルが敷き詰められていた。
 浴槽も、同じ色の石で作られている。
 このような美しい浴室を見たことが無かったナナは、思わず感嘆のため息を漏らした。
 同時に、自分がこれからここに入るのかと思うと、少々わくわくしてくる。
 ナナは手早く服を脱いでしまうと早々と浴室へ入ろうとするが、ふと、脱衣所に備え付けてある大きめの鏡を見て、足を止めた。
 鏡に映る自分の姿…その胸の辺りの中心にある、朱い刻印。
 ナナは鏡に近付くと、鏡越しに、そっと刻印に触れてみる。
 (フレイアの…ダリアの左頬にあったのと同じ…)
 ナナはゆくっりと目を伏せ、それからゆっくりと開くと、口許に僅かに笑みを浮かべた。






 風呂から上がるとナナは一階へ降り、神殿へ来て一番初めに通された部屋へと向かった。
 部屋の近くまで行くと、何かを炒めているような小気味の良い音が聞こえてくる。
 ゆっくりと扉を開くと、奥のキッチンでティアが一人料理をしており、ティアがフライパンを翻すのに合わせて炒められている野菜が器用に宙を舞っていた。
 ナナが部屋の中へ一歩踏み入ると、ティアがそれに気付いて振り返る。
 「そこ、座りな」
 ティアに促され、ナナは木製の丸いテーブルを囲む椅子の一つに腰掛ける。
 すると、ティアが先ほど炒めていたらしき野菜と、透明に近い色のスープを運んできてくれた。
 あまりに美味しそうだったので、ナナは思わず感嘆の声を漏らす。
 「わぁ…」
 「食べな。腹減ってるだろ」
 ティアの言葉に、ナナは自分のお腹へと手を添える。
 ナナは、今にもお腹が鳴り出しそうな程空腹だった。
 「えっと、じゃあ、いただきます」
 「どうぞ」
 ナナは一度手を合わせてからフォークを持ち、まずは野菜炒めの方へと手を伸ばす。
 しかし、それより先に、背後から箸を持った手が伸びてきて野菜炒めを掴んでいった。
 突然のことにナナが驚いて振り返ると、背後にはいつものように微笑みを讃えたソフィアが立っていた。
 「うん、いつ食べても美味しいわね」
 「アンタ、いつの間に…」
 ティアはソフィアに呆れたような表情を向ける。
 「そういう細かいことは気にしては駄目よ。それより、ナナ、目が覚めたようね」
 「えっ!?は、はい…」
 突然話を振られたナナは、少々驚きながら答える。
 「体調はどう?」
 「大丈夫みたいです」
 「そう、良かったわ」
 言いながら、ソフィアはもう一度野菜炒めの方へと箸を伸ばすが、ティアによって制止された。
 「これはナナの分だろ」
 「少しくらい良いじゃない。ねぇ、ナナ」
 「は、はぁ…」
 「駄目だろ」
 「けち」
 「アンタらの分は後で作ってやるから」
 「仕方ないわね。判ったわ」
 ナナが呆然としている間に話は進み、ソフィアはようやくつまみ食いを諦めて箸を引っ込める。
 その様子に、ティアはやれやれとでも言わんばかりにため息をついた。
 「あと少しでみんな戻ってくるだろ?」
 「ええ、そうね」
 「?」
 二人の言葉にナナは疑問符を浮かべ、それからようやく他の皆がいないことに気付く。
 「そういえば、他のみんなは…?」
 ナナが問うと、ソフィアは微笑みを向けてきた。
 「ナナ、貴女はね、5日間も眠っていたのよ」
 「5日も…!?」
 問いの答えではなかったが、ナナはソフィアの言葉に驚きの表情を見せる。
 「まあ、その間にね、皆にも色々と変化があったのよ。サフィン君はシセルと一緒に修行をするようになって、サリサも、キリトも、毎朝森の方で修行をするようになったわ」
 そこまで言うと、ソフィアはナナを見て目を細め、再び口を開いた。
 「何故だか…判る?」
 「…?」
 ソフィアの問いに、ナナは首を横に傾ける。
 ソフィアはティアと顔を見合わせ、小さく微笑み合ってからナナの方へ視線を戻した。
 「貴女がフレイアになったから。だから、貴女の負担を軽くしようと…貴女の助けになろうと…皆、少しでも強くなろうと頑張っているのよ」
 「!」
 「…貴女の、為に」
 その言葉を聞いて、ナナは嬉しくなり…同時に、何かが込み上げてくるのを感じた。
 徐々に、視界が歪んでいく。
 「まあ、若干1名は多分違うと思うけどな」
 「ふふ、そうね」
 ナナを見て目を細めてから、二人は言う。
 すると、誰かが何かを言い合いながらこちらへと近付いてくる音が、廊下の方から聞こえてきた。
 サリサとキリトだ。
 「だから、どうせ近くで修行してるんだからさ、一緒にした方が効率いいだろ?」
 「あのねぇ、あんたみたいな化けモノじみた奴と一緒に修行なんてしてたらこっちの身が持たないわよ」
 「大丈夫、優しくするから」
 「はぁ!?何の話よ」
 「サリサこそ、何の話だと思ったんだよ。恥ずかしがらずに言ってみ…」
 ゴォッ!!
 キリトの言葉は、もの凄い轟音によって遮られる。
 …というより、轟音の発生源によって喋る事が出来なくなったと言った方が、多分正しいだろう。
 「…ったく」
 そう言いながら、サリサは室内へと入ってくる。
 そして、涙ぐんで椅子に座っているナナに気が付いた。
 サリサを見て、ナナは椅子から立ち上がる。
 「…サリサ…」
 「ナナっ!」
 サリサはナナの方へ足早に向かってきて、ナナの肩と頬に手を添えた。
 「良かった…目が覚めたのね」
 サリサは安堵の表情を浮かべる。
 その表情を見た時、ナナの目に留まっていた涙がひとすじ、こぼれ落ちた。
 サリサは少々驚き、ソフィアの方に視線を向ける。
 「あんた…ナナに何かしたわね?」
 「あら、失礼ね。何もしていないわよ?」
 サリサの疑いの眼差しを受け、ソフィアは口許に手を当てて微笑む。
 何となく険悪な雰囲気に、ナナは慌てて弁解を始めた。
 「ちっ、違うの!あのね…嬉しくて…」
 ナナの言葉に、サリサは小さく息を吐き、ナナの頭をぽんぽんと軽く叩きながら微笑む。
 「何も泣かなくても良いじゃないの」
 「うん。ごめんね」
 ナナは涙を拭いながら応える。
 すると、丁度その時、室内にサフィンがキリトを引きずりながら入ってきた。
 「なあ、サリサ、そこにキリトが転がってたんだけどまた何かあっ…」
 そこまで言ったところで、サフィンはナナの姿を見つけて言葉を切る。
 すぐ後にシセルも室内へ入ってきてナナの方を見たが、すぐに視線を逸らし、あとは無反応だった。
 「ナナ…良かった…気が付いたんだ…」
 そう言いながら、サフィンはキリトを持っていた手を放し、ナナの方へ近付いてくる。
 ナナの瞳から、一度は拭った涙が再び溢れ出してきた。
 ナナの涙を見てサフィンは足を止め、うろたえる。
 「えっ!?ナナ!?どうかした…」
 そこまで言って、サフィンは言葉を失った。
 ナナがサフィンの方へ駆け寄り、しがみ付いてきたからだ。
 サフィンは顔を真っ赤にして焦り出す。
 それを見て、ソフィアが「あらあら」と言って微笑み、ティアがからかうような笑みを向け、サリサといつの間にか復活したキリトが二人を冷やかし始めた。
 「あ、あの、ナナ…?」
 サフィンが問うと、ナナはしがみ付いた腕に一層力を込め、そして、口を開いた。
 「みんな…ありがとう」
 その言葉に、一同は微笑む。
 若干一名は不愛想なままだったが。



 その後、楽しげな話し声と笑い声は、しばしの間途切れることはなかった。


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