翌日、早朝。
まだ朝日が昇り始めておらず、空が白んでいるような時刻に、ナナは目を覚ました。
ゆっくりと上半身を起こし、伸びをする。
それから周囲を見ると、まだ自分以外の者は眠りから覚めていないようだった。
ナナはもともと朝は早い方であったが、サフィンより先に目が覚めるのは少しだけ珍しい。
そんなことを考えながら、皆を起こさないようにそっとベッドから降りて身支度を整えると、ナナは外の空気を吸おうと部屋を後にした。
外に出て両腕を広げると、ナナは思い切り空気を吸い込み、ゆっくりと吐いていく。
息を吐き終えると、ナナは満足そうな笑みを浮かべ、ひとり修行を始めようと足を踏み出した。
と、その時。
少し遠くの方から、誰かの掛け声のような声が聞こえてきた。
ナナは僅かに首を傾け、声のした方へと向かう。
すると、昨日ノーズと戦った……岩に囲まれた、広場のような場所へと出た。
声の主は、ノーズのようだった。
広場のような空間の中心で、短い掛け声を発しつつ、ひとり剣を振るっている。
ノーズの振るう剣技を、ナナは思わず足を止めて見入った。
ナナが普段目にしている、フレイアの……サフィンの振るう力強い剣技とは違った、まるで舞いを舞っているかのような、優美な身のこなし。
その動きに合わせて描かれる、美しい剣の軌道。
ノーズ自身が持つ美しさとも相まって、それはとても非現実的な、幻想的なものに見えた。
しばしの間ナナが見入っていると、視線に気付いたのか、ノーズが動きを止めてナナの方へと視線を向けてくる。
ナナははっとして、少々慌て気味に口を開いた。
「あ、あの、おはようございます! 朝、早いんですね!」
「貴女こそ、お早いですね」
ノーズはナナの慌てぶりを気にする風でもなく、柔らかい笑みを向けてくる。
その様子に、ナナは胸を撫で下ろし、ノーズの方へと近付いていった。
「あの、ノーズさんの剣技って、とても綺麗ですね。 私、思わず見とれちゃいました」
「ありがとうございます。 でも、まだまだ……貴女の強さには、敵いません」
「ノーズさん……」
僅かに悲しそうな表情を浮かべているノーズに、ナナは何と言ったらよいのか判らずに言葉を止める。
すると、ノーズは再び柔らかく微笑んだ。
「昨日はありがとうございました」
「えっ!?」
「私と戦ってくださって、ありがとうございました」
「で、でも、昨日のは私の実力を試すために……」
「いいえ」
ナナの言葉を遮って、ノーズは首を左右に振る。
「貴女達の実力は……戦う前から、判っていました。 でも私は、どうしてもフレイアと……貴女と、戦いたかったのです」
「どうして、ですか……?」
「私の実力でフレイアにどこまで通用するのか、試したかったのです。 全く、歯が立ちませんでしたが……」
ノーズは再び悲しそうな表情を見せる。
しかし、すぐさま表情から悲しみを消し去り、口を開いた。
「でも、そのお陰で、もっと強くなりたいという気持ちを再確認することができたのです。 だから……ありがとうございました」
その言葉を聞いてナナは嬉しくなり、表情を綻ばせる。
ノーズは、何だか照れ臭そうに笑った。
「あの、宜しければ私の修行に付き合って頂けませんか?」
「はい! 私も修行を始めようと思っていたところなんです」
ノーズの申し出を、ナナは快く受け入れる。
2人は広場のような空間の中央で、互いに少し距離を取って構えた。
だが、その時。
凄まじい悪寒が、2人を襲った。
身体の芯から凍えるような感覚に、全身が総毛立つ。
2人は構えたまま険しい表情で辺りを見回し……ある一点で、視線を止めた。
2人から数メートル離れたその場所には、もやもやと黒い霧のようなものが不自然に集まってきている。
黒い霧は、影となり……そして、やがて人の形を形成していった。
突然襲い掛かった身の凍るような感覚に、サフィンはベッドから飛び起き、険しい表情で辺りを見回す。
どうやら同じ物を感じ取ったらしく、サリサもキリトも同じように周囲を見回していた。
「何、この感じ……」
冷や汗を流しつつ、サリサが呟く。
言い知れぬ恐怖と、威圧感。
この、底冷えするような感覚を、サフィンはかつて何処かで感じたことがあった。
じっとりとした気持ちの悪い汗が、サフィンの頬や背中を伝っていく。
「ナナは……」
呟きながら、ナナの眠っていたベッドへと視線を向ける。
いない。
その事に気付いた瞬間、サフィンは傍らに立て掛けてあった剣だけを引っ掴み、部屋の外へと飛び出していた。
人型を形成した影の中から姿を現した人物を目の当たりにして、ナナは驚愕に目を見開いた。
ゆるやかに波打った、長い金色の髪。
表情に穏やかな笑みを浮かべてはいるものの、決して笑うことの無い紫紺の瞳。
忘れる筈が、無い。
「レグルス……いいえ、ファーゼイス……!!」
低い声でナナは呟き、両の拳をきつく握り締める。
ファーゼイスはナナに向かって微笑みかけ、右手を胸元に当てて一礼した。
「お久し振りですね、ナナさん。 それから……」
ゆっくりと、視線を向けられ、ノーズは思わずびくりと身体を震わせる。
「初めまして、ですね。 ノーズさん」
穏やかに、微笑み掛けられている筈なのに。
紫紺の瞳に見据えられ、ノーズは身動きを取ることができなかった。
初対面なのに何故自分の名を知っているのか、という、単純な疑問さえ打ち消されてしまうほどの恐怖と威圧感。
ノーズは幾筋もの冷や汗を流しつつも何とか構えていた剣の柄を握り直すが、手の震えが伝わって、僅かだが剣がカタカタと音を立ててしまう。
「しかし、折角お会いできたのに残念ですが、今日はあなたに会いに来たのではなく……」
ファーゼイスはノーズから視線を外し、再びナナの方を見た。
「ナナさん、あなたにお話があって来たのですよ」
そう言いながら、ファーゼイスはゆっくりとナナの方へ歩み寄っていく。
しかし、5歩程進んだところで足を止めた。
直後、ファーゼイスの目の前を何か刃のような鋭いものが掠めていく。
ファーゼイスはそれを僅かに後退して避けるが、刃に触れた金色の髪が数本、宙を舞った。
「おや、これはこれは……」
目の前を掠めていったものを、その刃を操っていた者を見て、ファーゼイスは微笑んで少し首を傾ける。
ナナとファーゼイスの間を疾風のように駆け抜け、ファーゼイスを斬り付けていったのは……サフィンだった。
サフィンは勢いのつき過ぎた身体を足でブレーキをかけて止めると、一足飛びで数メートル離れたナナの前へ着地し、ナナを庇うようにして立って剣を構える。
急いで飛び出してきたゆえに結ぶことすら忘れた長い黒髪が、肩の辺りでさらさらと流れた。
「お久し振りですね、サフィン君」
ファーゼイスは再び右手を胸元に当て、今度は自分に鋭い視線を投げ掛けているサフィンに向かって一礼する。
「私、今日はナナさんとお話がしたくて来たのですが……」
そう言って言葉を止め、ファーゼイスは周囲を見回し……最後にサフィンへと視線を戻すと、大袈裟に肩をすくめてみせた。
「どうやら、そうさせては頂けないようですね」
その言葉を聞いて、今まで硬直していたノーズが周囲に視線を巡らせてみる。
見ると、正面に立つサフィンの他に、一歩遅れて到着したらしきサリサとキリトがファーゼイスの左右を取り囲んでいた。
右側に立つキリトは弓を構えてファーゼイスに狙いを定め、左に立つサリサは既に呪文の詠唱を終え、すぐにでも魔術を放てるような状態になっている。
「みんな……」
その様子を見てナナは一瞬嬉しそうな表情を見せるが、すぐさま表情を厳しいものに変え、サフィンの隣へと歩み出て構えを取った。
5対1という、端からはファーゼイスにとって圧倒的に不利に見える状況。
しかし、そのような状況でも、ファーゼイスは眉ひとつ動かさずに微笑みだけを讃えている。
少しの間膠着状態が続き、緊張の為ナナの頬を一筋の冷や汗が伝った時。
ファーゼイスの背後から、ゆっくりと何者かの足音が聞こえてきた。
「私が感じた邪悪なものが、よもやお前だったとは……」
ファーゼイスの背後の岩陰から姿を現した足音の主は、シャハラザードだった。
「あなたが、私を封印する術を受け継いできた者ですか」
振り返りもせずに、ファーゼイスが言う。
「ああ、そうだ」
「昨日あなたがどのような封印術を皆さんにお教えしたのか、是非お聞きしたいところですが……」
ファーゼイスの言葉に、ナナ達の眉がぴくりと動くが、ファーゼイスはその様子を気にする風でもなく言葉を続ける。
「今は、そんなことはどうでもいい」
そう言って微笑んだファーゼイスの視線は、ナナに向けられていた。
視線を受けて、ナナは僅かに腰を落とし、低く構える。
次の瞬間。
ファーゼイスが一歩足を踏み出すのと同時に、ナナ達の一斉攻撃が始まった。
サリサの火炎球とキリトの矢が、ほぼ同時にファーゼイスに襲い掛かる。
ファーゼイスは両腕を広げて魔力の障壁を作り、それらを弾き返すが、次の瞬間左右からサフィンとノーズの鋭い剣閃が襲い掛かってきた。
しかし、剣が振り下ろされる瞬間、ファーゼイスを中心に凄まじい突風が巻き起こり、2人は弾き飛ばされてしまう。
ノーズは弾き飛ばされた体勢が悪く、背中を地面に擦りながら十数メートル吹き飛ぶが、何とか体勢を立て直したサフィンはすぐさま次の攻撃に転じようとしてファーゼイスを見据え……動きを止めた。
同じように、サリサとキリトも、ファーゼイスを見据えつつも身動きが取れずにいる。
サフィンとノーズの直後に攻撃を仕掛けたナナが、ファーゼイスに捕らえられていたのだ。
淡く、青い光を放つ球体の中に捕らわれたナナは、ファーゼイスのすぐ隣を浮遊している。
球体は一切物理攻撃を通さないらしく、ナナが内側からいくら叩いても、蹴っても、びくともしなかった。
「無駄な抵抗は止した方がいい。 この球体は、今のあなたの力では壊れないですよ」
自分を睨み付けてくるナナに微笑み掛けながら、ファーゼイスは球体にそっと手を添える。
すると、球体に入ったままのナナと、ファーゼイスが……一瞬のうちに、掻き消えた。
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