一瞬のうちに変貌した周囲の景色に驚き、ナナは周囲を見渡す。
そこは、先程までいた筈の岩場とは全く違う、背の高い枯れ木に囲まれた林のような場所だった。
ファーゼイスに捕えられて、それからどうしただろう。
景色が一変したということは、転移魔法でどこか別の場所に飛ばされてしまったのだろうか。
周囲を見渡しながらそう考えを巡らせたナナだが、ふと、あることに気付く。
周囲の景色が、全体的に薄青く見えるのだ。
気のせいかと目をこすってみても、やはり薄青さは変わらない。
何故だろうと、ナナは首をひねる。
が、すぐにその理由が思い当たった。
ナナが捕えられている、ファーゼイスが作り出した、ナナの身長よりも一回り程大きな僅かに宙に浮く球体。
それが、薄青く発光しているのだ。
物理攻撃を一切通さないらしい、ナナを捕える球体。
ナナはその球体に、忌々しげに右の拳を叩き付ける。
どうっ、という、ガラス戸を叩いた時のような、しかしそれよりは少し鈍い音が響くが、球体はびくともしなかった。
ここがどこなのかは判らないが、まずはこの球体から出ないことにはどうすることも出来ない。
何とかならないものかと、ナナはもう一度球体に拳を叩き付けた。
しかし、やはり鈍い音が響くだけで、球体には何の変化もない。
「無駄ですよ」
ふいに、背後から聞こえた声に驚き、ナナは勢いよく振り返る。
振り返って見た先には、いつの間に現れたのか、ファーゼイスが立っていた。
「その球体は、物理的な攻撃も、魔法的な攻撃も、そして気配すら通しません。 叩き壊そうとしても、無駄です」
ファーゼイスはゆっくりとナナの方へと近付いていき、球体にそっと手を添える。
自分を睨み付けながら構えているナナに向かって、ファーゼイスは微笑み掛けた。
「そう構えずとも、今、解放して差し上げますよ」
ファーゼイスが言うと、ナナを捕えていた球体が上の方からスーッと消えていく。
やがて視界から薄青さがなくなり、僅か十数センチ程下の地面に足が付くと、ナナは思い切り地面を蹴ってバックステップし、一跳びで30歩分程の距離をファーゼイスとの間に開け、構え直した。
「私を……どうするつもり……?」
球体から解放された途端に襲い掛かってきた威圧感に冷や汗を流しつつ、ナナはファーゼイスに問い掛ける。
「別にどうするつもりもありませんよ、今は……ね。 言ったでしょう? 私は貴女とお話がしたいだけですよ」
そう言って、ファーゼイスは微笑むが、ナナはファーゼイスを睨み付けたまま構えを崩さない。
しかし、ファーゼイスはナナの様子など構わずに話を続けた。
「貴女は、私の本来の肉体が既に滅んでしまっているということは、ご存知ですか?」
「……知ってる。 その身体だって、別の誰かのものなんでしょう」
ファーゼイスの問いに答えるべきか、ナナは少々迷いを見せつつも答える。
すると、ファーゼイスは笑みを濃くした。
「ご存知でしたか。 では話が早い。 ……自分の肉体でないというのは、なかなかに不便なものでしてね。 私の魂に適合する肉体でないと我が物とすることができず、例え我が物とすることができても、私の絶大な力を振るうには不十分過ぎる」
不十分過ぎる。
その言葉を聞き、ナナは内心で驚愕した。
今でさえ、威圧感で押し潰されそうだというのに、これでも充分ではないというのか。
驚愕を表情には出さないよう必死で努めていたナナだが、それでも、嫌な汗が頬や背中を伝っていく。
その様子を知ってか知らずか、ファーゼイスは再び笑み、口を開いた。
「ああ、この肉体は、今までのものに比べると非常に適合率は良いのです。 しかし、私の本来の力を振るうのにはまだ不十分だ……だから私は、もっと私に相応しい肉体を欲したのです」
そう言って、ファーゼイスは表情から笑みを消し、真っすぐにナナを見据える。
「ナナ……今世で最も私に相応しいのは、貴女の肉体だ」
「なっ……!?」
ナナは目を見開いた。
そして、過去を思い返す。
思えば、初めてファーゼイスと会った時も、ファーゼイスは自分を連れ去ろうとしていた。
あの時は、自分達を逃がそうとするフレイアの衝撃的な行動で、そんな事は気にも留めていなかったが……まさか、そのような理由があろうとは。
「そのうえ、時が経つにつれ……貴女が強くなるにつれ、更に私が力を振るうのに相応しい肉体になっていく……あぁ、ご存知でしたか? フレイアを継いでから、貴女の力が徐々に上がってきているということを」
徐々に力が上がってきていることについては、判っていた。
自分だけではない。
サフィンも、サリサも、キリトも……フレイアの技を継いでいるからなのか自分の影響なのかは判らないが、ナナがフレイアを継承して以降、確実に強くなってきている。
しかし、そんな事よりも。
「私にフレイアを継がせる為に……私の身体を、自分が操るのに相応しいものにするためにフレイアを殺したの……?」
拳を固く握り締め、ファーゼイスへの視線を鋭くして、ナナは問い掛ける。
その間ゆっくりとナナに近付いてきていたファーゼイスとの距離は、あと数歩のところまで迫っていた。
「結果そういうことになってしまいましたが……あの女は元々、私の敵です」
その言葉を聞いた瞬間、ナナは、全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。
表情に、瞳に、怒りの色を宿らせる。
考えるよりも先に、体が動いていた。
ナナは、一瞬のうちに身を低くして地面に手を付くと、右手を軸とした回転蹴りを繰り出す。
蹴りはファーゼイスの鳩尾に命中したが、手応えはあるものの、入りが浅い。
命中する直前にファーゼイスが後退し、かわした為だ。
ナナはすかさず体勢を立て直し、肘打ちを繰り出そうとするが、ファーゼイスの胸部に命中しようとしていた肘打ちが、ぴたりと止まった。
いや、止められた。
見れば、ファーゼイスが片手でナナの肘を止めている。
力を入れてみても、ぴくりとも動かない。
ナナは後方へ飛び退き、構え直した。
「そう熱くならないで下さい。 私が今使っているこの体は、いわば人質なのですよ?」
「そんなこと、判ってる」
「判っている? ……私には、そうは思えない」
ファーゼイスは両手を広げ、大袈裟に肩を竦めてみせる。
「先代から、聞かされていないのですか? この身体が、一体誰なのかを」
ファーゼイスの言葉に、ナナは僅かに眉を寄せた。
「ミルトレイア国の王様だっていうことなら、知ってる」
「そのことではない」
ファーゼイスはゆっくりと右手を上げ、自分の胸の辺りに添える。
それから柔らかく微笑み、口を開いた。
「この身体が、貴女の……兄だということです」
「!」
ナナに、電流のような衝撃が走る。
そのようなことは、聞かされていない。
「嘘……」
「嘘ではありません。 何でしたら、サリサ……と言いましたか。 彼女に聞いてみれば良い。 彼女は、このことをご存知のようでしたから」
ナナは目を見開き、目の前のファーゼイスを見る。
レグルス=オーリキュラ=フォン=ミルトレイア。
ミルトレイア国の国王である、目の前で不敵な笑みを浮かべている人物が……いや、正確には、不敵な笑みを浮かべたファーゼイスに身体を乗っ取られている人物が、自分の兄だというのか。
ナナにとってそれは、突然目の前に提示されても、そう易々と信じられるような事ではなかった。
「……その様子だと、あのことも……聞かされてはいないようですね」
あのこと?
訊ねようと思っても、声が出ない。
そんなナナの様子を見て、ファーゼイスは笑みを濃くした。
「貴女の父親、先代ミルトレイア国王レゴルを殺したのが、先代フレイアだということです」
先ほどよりも大きな衝撃が、ナナを襲った。
驚愕の余り、身体が小刻みに震え出す。
ナナは震える両手を胸の辺りで固く握り締めた。
「う……そ、だ……」
搾り出すようにして紡いだナナの言葉を肯定してくれる者は、いない。
「嘘などではありませんよ」
ファーゼイスはさも面白そうな笑みを浮かべ、ナナへと近付いていく。
ナナの目の前まで歩み寄ると、ファーゼイスは既に目の前の自分を見ることすらままならないナナに触れようと、ゆっくりと手を上げた。
しかし、その時。
視界の隅に銀色の光を捉え、ファーゼイスは表情から笑みを消す。
銀色の光を……装飾の少ない、しかし美しい長剣を抜き去りながらファーゼイスの方へと疾走してきたのは、サフィンだった。
「ナナから離れろっ!!」
叫びながら、サフィンはファーゼイスへ横薙ぎの一撃を繰り出す。
ファーゼイスは後方へ跳んでその一撃を避けるが、かわしきれず、頬に一筋の赤い線が走った。
着地すると、ファーゼイスは自分の左頬へと手を添える。
添えた手を離し、見ると、掌には赤いものが……鮮血が、べったりと付着していた。
手を降ろし、ファーゼイスは正面を見る。
そこには、ナナを庇うようにして剣を構えたサフィンが立っていた。
サフィンは眉を寄せ、しっかりとファーゼイスを見据えている。
そして、サフィンより僅かに遅れてこの場へ到着した橙色の長い髪を持つ女性も、ナナの横へ立ち、ファーゼイスを睨み付けていた。
「サフィン……それから、ルーティア、でしたか」
ファーゼイスの言葉には応えずに、サフィンは構えた剣を握り直す。
握り直された剣は、カチャリ、と、小さな音を立てた。
「そういきり立たずとも、私はこれで退散致しますよ。 もとよりそのつもりでしたし……」
ファーゼイスは肩を竦めてみせ、3人に背を向ける。
それから、顔だけ振り返り、未だ震えの収まらないナナに視線を向けた。
「ナナ……私はタルディアーナ大陸、ミルトレイアの地で、貴女をお待ちしています。 良い返事を……期待していますよ」
そう言って、視線を正面へと戻すと、ファーゼイスの姿はゆっくりと掻き消えていく。
ファーゼイスの姿が見えなくなり、気配が完全に感じられなくなると、サフィンは剣を鞘へと収め、振り返った。
「ナナ! 大丈夫か!?」
サフィンが問うも、ナナからの返事は無い。
「ナナ……?」
不審に思ったサフィンは、俯いていたナナの顔を覗き込む。
ナナは顔を覗き込んできたサフィンと目を合わせることもなくどこか一点を見ており、その表情は青ざめている。
そのうえ、小刻みに震えていた。
「おい、ナナ……!?」
サフィンはナナの両肩を掴み、軽く揺する。
すると、ナナはようやくサフィンの方を見た。
「大、丈夫……大丈夫だよ」
そう言って無理矢理のように微笑んだナナの表情はやはり青ざめており、とてもではないが大丈夫のようには見えない。
サフィンとティアは心配そうに眉をひそめ、顔を見合わせた。
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