世界最北の大陸タルディアーナの北端に位置する王国、ミルトレイア。
十数年前に現国王・レグルスが王となって以来、外交が閉鎖され、すっかり寂れてしまったこの国の一角に、『山猫亭』という看板を掲げた宿があった。
山猫亭は、かつて商業大国としてこの国が賑わっていた頃に建てられた宿のひとつで、恰幅が良く気も良い女将と、炭鉱夫を思わせる筋肉隆々な体格と強面とも言える面構えの亭主との2人で経営されている。
商業大国と呼ばれていた頃は宿泊客が途絶えることもなく盛況だったこの宿も、外交が閉鎖されてからは宿泊客も途絶え、かつて程の賑わいを見せることも無くなった。
しかし、1・2階で宿屋を、地下で酒場兼食事屋を経営していたお陰か、酒場を目的に山猫亭を訪れる客足が途絶えることはない。
……とは言っても来る客の殆どは顔なじみで、人数も少数ではあったが。
そんな山猫亭の酒場に、今日は見慣れない2人の人間の姿があった。
2人はカウンターに……内側で洗いものをしている女将の丁度真正面に腰掛けている。
ひとりは、椅子に腰掛けると床に着きそうな程に長く美しい銀色の髪を持ち、若草色のローブを身に着けた女性。
女性は野菜のスープをスプーンで掬い、空いている方の手でさらさらと流れてくる髪を耳元で軽く押さえながら口許へと運んでいる。
スープを飲んでいるだけだというのに、女性はその美しさからか神々しささえ漂わせていた。
そしてもうひとりは、蒼い髪と瞳を持ち、黒衣に身を包んだ男性。
男性は無表情のまま紅茶の入った白いカップに口を付けていた。
無表情なのか呆けているのか、男性の瞳が何を捉えているのかはまるで判断がつかない。
ともかく、このような珍客を好奇心の強い女将が放っておく筈もなく、カウンターに腰を下ろしてから、2人は女将に休むことなく話し掛けられていた。
「美味いかい? あたしの亭主特性のスープは」
「ええ、とっても美味しいわ」
「そうだろうねぇ。 ミルトレイア広しといえど、この味を作り出せるのはウチの亭主だけさ。 そういやあんた達見ない顔だけど、国民かい?」
「いいえ、違うわ」
女性の返答に、女将は首を傾ける。
十数年前に外交が閉鎖されて以降、ミルトレイアに易々と入国出来ぬように関所や検問が数多く設けられているからだ。
その為、国民は命懸けで亡命する他国外へと出る方法は無く、ましてや外からの入国者など、今のこの国では考えられない。
「じゃあ、どうやってこの国に?」
女将の質問に、女性は極上の笑みを湛え、のたまった。
「勿論、不法入国に決まっているでしょう?」
女性の返答に女将はしばし唖然としていたが、ややあって、せきを切ったように腹を抱えて笑い出す。
と同時に、女性の言葉が聞こえていた店内にいる数人の客も、一斉に笑い声を上げ始めた。
ひとしきり笑い終えると、女将は笑いすぎで目尻に浮かんだ涙を拭い、女性に満面の笑みを向ける。
とても人懐こそうな笑顔だった。
「あんた達、気に入ったよ。 名前は何てんだい?」
「ソフィアよ。 こっちの仏頂面はシセル」
ソフィアに紹介されると、シセルはカップを口から外し、女将に向かって僅かに頭を下げる。
頭を下げられると、女将はシセルにも人懐こそうなその笑みを向けた。
「ところであんた達、不法入国までしてこの国に一体何しに来たんだい?」
「あまり人に話せるような理由ではないのだけれど、少し、この国で調べたい事があるの。 それにしてもこの国、商業大国と呼ばれていた割には余り活気が感じられないようだけれど?」
「そりゃあ、まぁ、外交が閉鎖されてからは商人も寄り付かなくなちまったし、国に不満を感じて亡命する連中も多かったからなぁ!」
ソフィアの問いには、女将ではなくソフィア達の後方のテーブルに着いていた中年の男が答える。
それに乗じるようにして、店内の端のテーブルに着いて酒を煽っていた年配の男も口を開いた。
「王が変わってからは、まるで恐怖で人を押さえ付けるような政治になっちまったからな。 文句でも言おうもんなら切り捨てられるしで、そりゃ不安や不満も募るって訳だ。 でも、オレ達は知ってんのさ」
「何を、知っているの?」
年配の男に笑みを向け、ソフィアは問う。
「そりゃあ、今の王があんな奴じゃないって事さ」
今度は女将が問いに答えた。
ソフィアは女将の方へと視線を戻す。
「賢王と呼ばれたレゴル王の血を引いているんだ。 レグルス王だって本当は、あんな恐怖であたしらを押さえ付けるようなことをするような男じゃない。 何か、理由がある筈なんだよ。 今の状態にはね」
女将の言葉を聞いてソフィアは目を細め、笑みを一層濃くした。
レグルスが身体を乗っ取られているという現在の状況を知らない国民達が、王が王ではないということを理解し、本来の姿を取り戻すことをじっと耐え忍んで待ち続けている。
理解しているというより本能で察知しているのかも知れないし、もしかしたら、そう信じたいだけなのかも知れない。
しかし、国がこのような状態になっても王を信じ続け、笑うことが出来る女将達を見ていると、ソフィアは何だか嬉しくなった。
「だからあたしらは国を捨てずに、王が戻ってくるのをずっと待ってるのさ!」
両手を広げ、誇らしげに女将が言う。
すると、店内にいた客達も女将を囃し立てたり拍手を送ったりなどして、女将の意見に賛同する意志を表した。
「……良い国ね」
そう呟いたソフィアの言葉を、騒がしくなった店内で聞き取れる者はいなかった。
無論、シセルを除いての話だが。
ソフィアは王について嬉しそうに語り合う店内の人々の声を聞きながら、残りのスープを飲み始める。
スープを飲み終えると、ソフィアは女将に向かって口を開いた。
「ところで、女将さん。 私達、しばらくの間ここに泊まりたいのだけれど、良いかしら?」
ソフィアの問いに、女将は満面の笑みで答えた。
「勿論、何日でも泊まって行くといいよ。 大歓迎さ!」
「ありがとう。 じゃあ、早速部屋へ案内して貰えるかしら」
「ああ、良いよ。 付いといで!」
そう言って女将はカウンターから出て、1階へと続く階段を上がっていく。
ソフィアとシセルも席を立ち、女将に続こうとして、足を止めた。
「スープ、本当に美味しかったわ。 ごちそうさま」
足を止めてソフィアが声を掛けたのは、カウンターの奥で大きな鍋の中身を柄の長い杓子で掻き回していた宿の主人だ。
主人は強面に笑みを浮かべ、
「また飲むといいさ」
と言葉を返す。
ソフィアはその言葉に笑みだけを返し、1階の方へと上がっていった女将とシセルの後へと続いた。
女将が案内してくれたのは、2階にある8部屋のうち、一番奥にある部屋だった。
「本当に、部屋は1つでいいのかい?」
女将の問いに、ソフィアは肯定を意味する笑みを向ける。
その笑みを受け、女将はにんまりと妖しげな笑みを浮かべた。
「はぁん、さてはあんた達、あれだね?」
言いながら、女将はぴっと小指を立ててみせる。
ソフィアは微笑を崩さぬまま、「まぁ、そんなところよ」と返した。
部屋をひとつにした最大の理由は、長期滞在に備えて経費を節約する為なのだが。
2人がひとつの部屋で過ごしても何ら問題のない関係であることは、確かだ。
部屋の鍵をソフィアに手渡すと、女将は妖しげな笑みを浮かべたまま去っていく。
その姿を見送ってから、ソフィアとシセルは室内へと足を踏み入れた。
室内はさほど広くはなかったが、若草色を基調としてシンプルに、しかし少しだけ可愛らしい雰囲気で整えられており、ソフィアは一目で気に入った様子だ。
「綺麗な部屋ね」
2つあるベッドのうち、奥のベッドの上に荷物を降ろしながら、ソフィアはシセルを振り返る。
シセルはソフィアに視線を合わせるも、すぐさま逸らして手前のベッドの脇に荷物を降ろした。
ソフィアはくすりと笑んでから、自分が荷物を降ろしたベッドの近くにある大きめの窓の方へと歩み寄り、窓は開けずに、外を伺う。
窓は通りに面しているが、それほど大きな通りではないうえに現在の国の状態も手伝って、人通りは皆無だった。
まっすぐに伸びる通りを視線でなぞり、ソフィアは、そのずっと先にある一際大きな建物を見据える。
国がこのような状態だというのに優雅にそびえ立つそれは、国の主が住まうべき場所。
王城だ。
「……さあ、それじゃあ、行きましょうか」
「ああ」
振り返ったソフィアに今度は言葉を返してきたシセルの手にはしっかりと愛用の剣が握られていて、出掛ける準備は万端といった様子だ。
その様子にソフィアは再び笑みを漏らし、シセルの隣へと歩み寄る。
2人は一度視線を合わせてから、部屋を後にした。
正面門と裏門以外の場所が高い塀に覆われている広い王城の周囲をぐるりと一周してから、2人は足を止め、王城を見上げる。
「やっぱり、ここには居ないのね」
「……恐らく、ここからそう遠くない場所へは居るだろうがな」
「そう、ね」
シセルの言葉に応え、ソフィアは王城を見上げる目を僅かに細めた。
ナナ達が神殿を発ってからタスカローラまでは、ソフィア、シセル、ティアの3人でナナ達をソフィア曰くストーキングしていたのだが、ナナ達が封印術を求めに行くということになってすぐに、ナナ達の後を追うのをティアに任せ、2人は一足先にミルトレイアへと向かっていた。
封印術を手に入れたら、ナナ達は必ずここへ来る。
そしてその時、敵の動向や居場所を把握しておくことは必ず必要になると、そう考えたからだ。
力が完全に戻るまでは恐らく、ファーゼイスは行動を起こすことは無いだろう。
過去の歴史を振り返ってみてもそうだった。
しかし、今やファーゼイスの力は完全に近いところまで回復しつつある。
ナナ達の到着を待ってから居場所を探っていたのでは、手遅れになるかも知れない。
ソフィアはゆっくりと目を閉じる。
感じるのは、風の流れ。
しばしの間目を閉じてじっとしていたソフィアだが、やがてゆっくりと目を開いた。
視線は王城へと向けたまま、ソフィアは口を開く。
「ずっと、北の方に……風の流れが不自然な場所があるわ」
「行くか」
「ええ」
互いに顔を見合わせ、こくりと浅く頷き合うと、2人は北の方角へと歩みを進めた。
そんな2人の姿を、まるで監視でもするかのように眺める者が、ひとり。
王城を囲む塀の内側に気配を消して潜んでいたその者の持つ金色の鋭い瞳が一瞬揺らめいたかと思うと、次の瞬間、その者の姿はその場から掻き消えていた。
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