ミルトレイア王国の先代国王、レゴル=オーリキュラ=フォン=ミルトレイア。
彼は賢王と呼ばれ、圧倒的な人望と政治力を以って国を統治していた。
彼の代で国は商業都市として瞬く間に栄え、商人を中心に人々も集まり、世界でも屈指の大国となる。
二十数年前、正王妃の第一子……レグルスが産まれた時も、父王の血を引いて賢王となり国を栄えさせてくれるだろうと、国を挙げて王位継承者の誕生を祝ったという。
「……でも、十数年前。 世間には全く知らされてはいなかったけど、丁度ナナが誕生した頃のことね。 レゴルがまるで別人のように豹変して、国の運営を投げ捨て始めたのよ」
両手を添えた結晶体に映り込む自分の顔を眺めながら、普段より僅かに低いトーンで、しかしはっきりと、サリサは言葉を紡いでいく。
その場にいる全員が、サリサの言葉を僅かでも聞き逃すまいと、真剣に耳を傾けていた。
17年程前。
ナナがこの世に生を受けた頃。
偶然にも、ファーゼイスが結界を破ったのはその頃の事だった。
既に肉体が滅び魂のみの存在となっているファーゼイスは、復活した後、自分の魂に波長が合いその強大な魔力を操るのに相応しい肉体を選び出し乗っ取ることによって、世界に姿を現し、掌握しようと動き出す。
その器として初めに選ばれたのが、レゴルであったのだ。
ファーゼイスに乗っ取られたレゴルは、政治や国王の責務全てを投げ捨て、王城の自室から一歩も外へ出ずに国民のみならず家臣の前にすら姿を見せなくなった。
そのような主君の姿に落胆し、直接抗議を申し立てる者もいたが、そういった者達は例外なく主君自らの手で命を絶たれるという運命を辿った為、やがて、抗議を申し立てる者も現れなくなる。
かつての賢王は暴君へと変わり果て。
やがて、家臣が国を離れ、商人が離れ、国民も離れ始め……
瞬く間に、国は廃れていった。
しかし、そんな折に。
国がそのような状態になっても相変わらず何ものにも興味を示すことなく自室から一歩も外へ出ようとはしなかったレゴルが、唯一興味を示すものが現れた。
ナナだ。
城内の片隅の部屋で密やかに育てられていたナナに、レゴルは異常なまでの興味を示し始めたのだ。
完璧なまでに自分の魂との波長の合う、将来自分の肉体となるべき存在に巡り逢えたことへの、無上の喜び。
ナナに対するレゴルの興味がそのようなものだと気付く者はいなかったが、明らかに異常な興味の示し方に、城に仕える侍女であったナナの母親が、危機感を覚える。
危機感は、少しずつ、確実に積もってゆき。
レゴルが豹変してひと月程が過ぎた頃、ナナの母親は、レゴルに不信感を抱く数人の家臣の手を借り、ナナを抱えて城を脱走した。
ナナの母親が頼って行った先は、サフィンの両親の許だった。
名も知られぬような山奥の集落に住むサフィンの両親とナナの母親は同郷で、幼い頃からの友人であったのだ。
突然訪れた、そのうえ尋常ではない様子の友人を、サフィンの両親は快く受け入れる。
そして、ミルトレイア王国の現状を聞いて、そのことをフレイアに伝えるべきだという結論に達した。
サフィンの両親はかつて魔物に襲われた際にフレイアに助けられ、フレイアを家へ招き入れたことがあったのだ。
サフィンの両親も、ナナの母親も、フレイアの伝承については薄い知識しか持ち合わせていない。
けれど、彼女なら何とかしてくれるのではないか、と。
国王を正気に戻し、ミルトレイア王国を救ってくれるのではないかという確信にも似た思いが、胸中にはあった。
所在の定まらぬフレイアへの手紙を伝書鳥に託し、彼らはフレイアの到着を待った。
しかし、事件は起こる。
ナナの母親の……いや、正確にはナナの行方を追っていたレゴルの……ファーゼイスの配下である妖魔達が、集落を襲撃してきたのだ。
両親らはとっさに家の地下室へナナとサフィン、それから、いざという時の為に認めたフレイアへの手紙を隠した為、子供2人は難を逃れることが出来た。
しかし、集落は壊滅。
2人以外の人間も全て……襲撃してきた妖魔達によって、命を絶たれた。
フレイアが集落を訪れたのは、集落が壊滅した後のことだった。
死臭にまみれた、崩壊し切った集落の中で、フレイアは2人の幼子を見付ける。
それが、ナナとサフィンだった。
「フレイアは手紙を読んで経緯を知り、人目に付かない安全な場所へあんた達を送る為に、ロサ・ガリカへ向かったの」
サリサの言葉に、ぴくり、と、キリトとティアが反応する。
2人の間に同時に浮かんだ疑問。
それを言葉として出したのは、ティアだった。
「ちょっと待って。 つまり、フレイアは……」
言い終えぬうちに、サリサがこくりと頷く。
「ええ。 フレイアは、初め……ナナにも、サフィンにも、あたしにも……フレイアの技を、教える気は無かったの。 まぁ、キリトの場合はちょっと、例外なんだけど」
名を挙げると、全員の視線がサリサの隣の席に座るキリトの方へと向けられる。
どっかりと椅子の背もたれに背中を預けて足を組んで座っていたキリトは、視線を向けられて苦笑とも取れる笑みをその顔に浮かべた。
「俺が住んでた場所には、どういう訳か何代か前のフレイアが伝えたとされる弓術が伝わってたからな。 先代フレイアの意志とは関係なく、どちらにしろ俺は弓術を受け継ぐことになってただろうな」
そう言ったキリトの表情を見て、サフィンは僅かに眉を寄せる。
苦笑にも似たその表情に、その瞳に。
僅かだが、憎悪のような光が宿っていたように感じられたからだ。
そのことが気にはなりつつも、サフィンはすぐにキリトから視線を逸らし、サリサの方へと戻す。
憎悪の意味を、聞いてはいけないような気がした。
「まぁ、俺の話はいいよ。 続きがあるんだろ?」
表情を元に戻し、キリトはサリサの顔を覗きこむようにしながら、言う。
サリサはこくりと頷くと、話を続けた。
「フレイアはロサ・ガリカへあんた達を送ったら、すぐさまミルトレイアへ向かうつもりだった。 フレイアとしての使命を、自分の代で、終わらせる為にね」
「!」
ぴくり、と。
今まで淡々とサリサの話を聞いていたナナが僅かに目を見開き、反応を見せる。
サリサはそれに気付いたのか、結晶体に向けていた視線をすうっとナナへ移した。
「判るわよね? つまり、フレイアは……レゴルごとファーゼイスを殺すつもりだったのよ」
表情を元に戻し、ナナはこくりと頷く。
「でも、そうはならなかった……んだよね?」
「そう、ね」
サリサは視線を結晶体へ戻すと、再び話し始めた。
「ナナの言う通り、フレイアの思惑通りに事は運ばなかった。 あんた達を連れてロサ・ガリカへ到着する少し前にね……フレイアの前に、ファーゼイス本人が現れたのよ」
あと1日程でロサ・ガリカへ着くという、その時。
フレイアの前に、レゴルの身体を乗っ取ったファーゼイスが単身姿を現した。
ファーゼイスはナナを引き渡すようフレイアに要求するが、フレイアはそれを拒否。
強引にナナを連れ去ろうとするファーゼイスとの、戦いが始まった。
ファーゼイスは封印から醒めたばかりで魔力が戻り切っていない状態だったが、ナナとサフィンを守りながらの戦いに、フレイアはかなりの苦戦を強いられた。
フレイアとファーゼイスの実力は、その時、ほぼ互角。
だがフレイアは、自分の身を守りながらも子供2人にも気を回さなければならない。
そんな戦いを続けているうち、フレイアに窮地が訪れた。
子供2人へ向かった魔術に気を取られている隙に、ファーゼイスの繰り出した剣撃が目の前まで迫ってきていたのだ。
もうお終いか、と。
諦めの思考が、フレイアの脳裏を過ぎる。
しかしその時、確実にフレイアの心臓に命中する筈だった剣撃が、僅か数ミリ手前で止められた。
攻撃を止めたのは、ファーゼイス自身。
いや、ファーゼイスに身体を乗っ取られ操られていた、レゴル王であった。
ひとつの身体に、ふたつの意識が存在することは出来ない。
それゆえファーゼイスに身体を乗っ取られた者の意識は、強制的に、深い、深い眠りに就かされている。
にも関わらず、レゴル王はファーゼイスの支配を跳ね除け、逆にファーゼイスの意識を無理矢理深層へと押し込め、自分の意識を浮上させたのだ。
彼は、賢く。
強い、王であった。
レゴル王はフレイアに、自分ごとファーゼイスを殺すよう促した。
そうすれば永久に、ファーゼイスを滅ぼすことが出来る。
フレイアとしての使命を、終わらせることが出来る。
レゴル王は、失うには惜しい男だった。
だが、その時は……レゴル王ごとファーゼイスを殺すことしか、フレイアには取れる方法が無かった。
殺すことを、憚られながらも。
フレイアは、固く握り締めた銀の剣を、レゴル王の胸に突き立てた。
「レゴル王はその場に倒れ……息を引き取ったそうよ」
言い辛そうに発音されたサリサの言葉。
しかし、静まり返った室内に、その声は酷く響いた。
その声を境に、室内は沈黙に支配される。
しばしの間、誰も声を発することが出来なかった。
「……でも、ファーゼイスは生きてる。 支配された者ごと殺せば、ファーゼイスも死ぬ筈じゃないのか?」
沈黙を破ったのは、ティアだ。
ティアの言葉に落としていた視線を上げると、サリサは神妙な面持ちでその問いに答える。
「支配された者の中にファーゼイスの魂が留まっている状態で殺せば、支配された者もろともファーゼイスも死ぬわ。 でも、レゴル王に剣が突きたてられる瞬間……ファーゼイスはレゴル王の支配を跳ね除けて意識を浮上させ、レゴル王の身体から、抜け出したのよ」
そう言って、サリサが俯くと。
再び、室内は沈黙に支配された。
俯いたままで、今度はサリサがその沈黙を破る。
「死を免れたファーゼイスが次の肉体として選んだのは、レグルスの身体だった。 戦いで重症を負ったフレイアは……継承者を見付けて次にファーゼイスが動き出すのに備えることしか出来なかった。 そして、皮肉にも……ナナとサフィンは、フレイアの技を継承するだけの器を持っていた。 フレイアはナナに格闘術を、サフィンに剣術を教えることを決意し……魔術を教える相手に、あたしを選んだ」
「……そして十数年が経って、再びファーゼイスが動き出し今に至る、という訳か」
キリトが言葉を続けると、サリサはこくりと頷いた。
それから視線を上げ、サフィンを、そしてナナを見る。
「これが、真実の全てよ」
サリサの目を、ナナは真っすぐに見返していたが。
やがて、自分の膝の上に置かれた手に、すっと視線を落とした。
「……私ね、フレイアを継承した時に、ファーゼイスを封印する方法とか、今までフレイアを継承してきた人たちの記憶とか……全部、受け継いだ筈なの。 でも、そんな事は……」
初めて、知った。
声にこそ出さなかったが、ナナの言いたいことは、全員が理解していた。
その声に応えるように、サリサが口を開く。
「ジェネシスがわざとそうしたのか、フレイアがその事をナナに知られたくないと思ったのか……それは判らないわ。 けど、今話したことは……全て、事実よ」
ナナは、俯いたまま……ゆっくりと、瞳を閉じた。
「……そっか」
苦しそうな、悲しそうな表情でそれだけを呟くと、ナナはゆっくりと目蓋を持ち上げ、ゆっくりとベッドの上に立ち上がる。
そしてベッドから降り、何も言わずに部屋の出口へと向かった。
「ナナ……」
ドアノブに手を掛けたナナを、サリサが呼び止める。
ナナは歩みを止めて振り返り、にこりと、微笑んだ。
「ごめんね。 ちょっとだけ……ひとりにして欲しいの」
それだけを言うと、ナナは扉を開け、室外へと出て行った。
徐々に遠のいていく足音が聞こえなくなる頃、ぱたん、と、静かにドアの閉まる音が響く。
その場に残された者達は言葉を発することもなく、ナナの出て行く様子を目で追うことしか出来なかった。
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