ナナが部屋を出てから十分程が経過した頃。
それまで誰も言葉を発することなく沈黙に包まれていた室内に、ギッ、と、ベッドの軋む音が響いた。
音のした方向を、全員が見る。
全員の視線の先には、ベッドから立ち上がったサフィンがいた。
「俺、ナナを捜してくるよ」
小さく笑んでそう言うと、サフィンは部屋の出口へと足を進める。
が、ドアを開けて室外へと出ようとするサフィンを、サリサが呼び止めた。
「サフィン……あの……」
呼び止めたものの、サリサが言い辛そうにしていると、サフィンが小さく首を傾げて先を促す。
サリサは彷徨わせていた視線をサフィンへと向けると、言葉を続けた。
「悪かった、わね。 今まで……黙ってて」
そう言って、サリサは申し訳なさそうに苦笑する。
サフィンは先程よりも深い笑みを、サリサへと向けた。
「俺だって、そんな事を知っていたらちゃんと皆に話せるかどうか判らない。 話して、その先を見るのが……凄く、恐いと思う。 だから俺は感謝してるよ。 話してくれて、ありがとう」
サフィンの言葉を聞いて、サリサは表情に笑みを浮かべる。
しかし、眉は僅かに寄せられていて……今にも泣き出しそうな、そんな表情にも見えた。
サリサの笑みに応えるかのようにもう一度笑みを刻むと、サフィンは船室を後にする。
それに続いて、ティアも出口の方へと足を進めた。
「ちょっと、心配だからね。 アタシもナナを捜してみるよ」
ティアの言葉にサリサが頷くと、ティアも、船室を後にする。
ドアは静かに閉まり、足音は遠のいていった。
室内に残されたのは、サリサとキリトだけだ。
ティアの足音が完全に聞こえなくなると、サリサは小さく溜め息を吐いて椅子から立ち上がり、手前のベッドに倒れ込むようにして身体を預けた。
サリサが倒れ込んだ反動で、ベッドがギシギシと少し耳障りな音を立てて軋む。
軋む音が収まると、サリサは身体を半回転させて仰向けに寝転がった。
右手の甲で目元を覆い、左手はベッドの上に無造作に放り投げる。
それから再び、小さく溜め息を吐いた。
「……どう思ったかしら」
ぽつりと、呟くと。
キリトが、その言葉に応える。
「ナナのこと、心配してるのか?」
「そうね」
「サフィンもそうだったけど。 ナナなら、大丈夫だろ。 ちゃんと真実を受け止めて、戦えるさ」
「……うん。 そう、よね……」
「それより俺は、サリサの方が心配なんだけど?」
声が随分と近くから聞こえた気がして、サリサは目元を覆っていた右手をずらしてみる。
すると、先程まではベッド横のテーブルの席に着いていた筈のキリトの顔が、いつの間にか目の前にあった。
キリトはサリサの上に覆いかぶさり、サリサの顔の両脇に手を突いて顔を覗き込んでいる。
眉を少し寄せたその表情は、サリサに対する怒りを表していた。
「そんな辛そうな顔するくらいなら、何でもっと早く俺に言わなかったんだ? 俺にも……話したくなかったのか?」
先程サフィンへ向けた、今にも泣き出しそうな笑みを。
サリサは、再び浮かべる。
「悪かったわね。 あんたには、話そうと……思っては、いたんだけど。 なかなか話すタイミングが掴めなくてね」
「……ひとりで抱え込みがちなの、悪い癖だな」
「えぇ……だから、悪かったわよ」
苦笑しながらサリサが言うと、キリトは更に眉を寄せて、サリサに顔を近付けていく。
2人の顔は、鼻先が触れそうなほど近くにあった。
「今度こういうことしたら、サリサ、俺に何されても文句言わないこと」
「あぁもう、判ったわよ。 だから……」
そこで一度言葉を切り、サリサは右手でキリトの顔を掴み、思い切り押し返す。
表情は先程と一変し、キリトを非難するような、睨み付けるような、そんな表情だった。
「顔を近付けるのと太股をまさぐるの、止めなさい」
明らかに怒気を含んだ声で、サリサは言い放つ。
そう言われ、キリトは先程までの表情はどこへやら、へらっと締まりのない笑みを浮かべた。
「いやー、今なら結構良い雰囲気だし、濡れ場に持ち込めるかなー……なんて思ってさ」
「冗談じゃないわよ。 早くどきなさいってば」
右手で顔を、左手でいつの間にやら太股をまさぐっていた手を、サリサは思い切り押し返そうと力を込めるが、力では敵わず、顔が徐々に近付いてくる。
くすり、と、キリトが勝ちを確信したかのような笑みを浮かべた、その瞬間。
サリサはキリトを思い切り睨み付け、唯一自由に動く右足を、渾身の力で振り上げた。
「ぐふっ!」
振り上げられた足はキリトの鳩尾に見事に命中。
キリトは腹を押さえながらベッドから転がり落ちた。
サリサはすかさず起き上がり、ベッドの横の床に腹を押さえながら苦しそうにうずくまっているキリトを一瞥すると、ベッドから降りて部屋の出口へと向かう。
「サリサ、酷い……」
「酷くも何ともないわよ! 黒焦げにされないだけマシだと思うことね!」
背後から掛けられる声に、サリサは腕を組んで振り向かずに言い放つ。
それから、はっと、普段の調子を少し取り戻せていることに気付いて口許を僅かに緩めた。
緩めた口許はすぐさま元に戻し、サリサは再び口を開く。
「……ったく。 じゃあ、あたし、ナナを捜しに行ってくるから」
ドアノブに手を掛け、サリサは部屋を後にした。
キリトは慌てて立ち上がり、サリサの後を追う。
「待てよ。 俺も行くって」
慌てた口調でそう言ったキリトの表情には、微かな笑みが、浮かべられていた。
船の甲板に立って縁に手を掛け、ナナはぼんやりと波打つ水面を眺めていた。
ミルトレイア王国の現状の所為かタルディアーナ大陸へと渡る者は少なく、甲板にはナナ以外の者が見受けられない。
「綺麗だな……」
夕暮れ時のため橙色に染まり、きらきらと輝く水面を見ながら。
ぽつりと、ナナは呟く。
そう呟いて満面の笑みを浮かべたナナの顔も、桜色の髪も、水面と同じ橙色に染められていた。
「ナナ」
後方から掛けられた声に気付いて、ナナは振り返る。
ナナの後ろに静かに佇んでいたのは、サフィンだった。
「戦うの……辛くなったか?」
ナナがどう思っているか。
どう応えるか。
それは、判ってはいたけれど。
微かな笑みを浮かべながら、本心からではない問いを、サフィンはナナへと投げ掛ける。
その問いに、ナナは首を横に振った。
「辛いだなんて、思ってないよ。 ただ、レグルスが私のお兄ちゃんなら……絶対にファーゼイスから解放してあげなきゃって、そう思っただけ」
言いながら、ゆっくりと、ナナはサフィンの方へと歩み寄ってくる。
サフィンの数歩手前で足を止め、ナナはサフィンの顔を見上げた。
「お父さんも……フレイアも、使命を果たす為に頑張ってくれた。 私達を、守ろうとしてくれた。 だから、今度は私が……私達が、頑張って使命を果たさなきゃ」
「ああ」
「みんなも一緒に戦ってくれるから、大丈夫よ、ね」
そう言って、ナナは甲板への入り口の方へと視線を向ける。
そこには、サリサ、キリト、ティアの3人が佇んでいた。
「フレイアのこと、憎いと思わなかった?」
少しだけ辛そうな表情を浮かべ、サリサはナナの方へと歩み寄ってくる。
サリサの問いに、ナナは愛らしい笑みを浮かべた。
「憎いだなんて思ってないよ。 フレイアは……ううん、ダリアは、長い間私達を育てて、守ってくれた。 私、ダリアのこと、大好きだもの」
フレイアの真実の名を呼んで微笑むナナに、サリサはそっと手を伸ばす。
その言葉に、胸が熱くなって。
サリサは、きつく、ナナを抱きしめていた。
「あたし達も一緒だからね」
「うん、判ってる」
ゆっくりと、サリサの背に腕を回して。
細い腕でサリサを抱きしめ返しながら、ナナが応えた。
「何だか、運命的なものを感じるな」
その光景に目を細めながら、ティアが呟く。
ナナとサリサは腕を解いてティアの方へと視線を向け、ティアと同様目を細めて2人を見ていたサフィンとキリトも、ティアの方を見た。
「話を聞いてて、思ったんだけどさ。 何となくだけど……ナナがフレイアになったのは運命だったんじゃないかって」
「運命……?」
ティアの言葉にナナは僅かに首を傾げ、それから首を横に振る。
真っすぐにティアを見つめ、ナナは言葉を紡いだ。
「違うよ。 そんなものじゃないよ。 だって、これは自分で選んだ道だもの」
ナナの言葉に、ティアは僅かに目を剥く。
「運命とか、そんなんじゃなくて……私がそうしたかったから。 だから、フレイアになったんだよ」
これから歩もうとする道も。
今まで歩んできた道ですらも、自分の手で選んだものだと。
真っすぐに向けられたナナの瞳は、そう言っている。
「……そうか」
言い終えて微笑んだナナを見て再び目を細め、ティアが言うと。
その場にいた全員の顔に、笑みが浮かべられた。
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